社会

ブランコごと吹き飛ばされた弟 上間義盛さん

 朝の登校時、うるま市石川の宮森小学校校門前で優しいまなざしを向けながら、児童らに声を掛ける男性がいた。同小学校出身で、「石川・宮森六三〇会」副会長の上間義盛(うえま・よしもり)さん(75)だ。県交通安全推進員も務める。子どもたちと同年代の弟、芳武君=当時3年生=を宮森小学校ジェット機墜落で亡くした。「毎日学校前に立っている。事件事故、犯罪で子どもを失いたくはない」


子どもたちの登下校の見守り活動をする上間義盛さん=2018年6月、沖縄県うるま市


弟が無言の帰宅


 墜落時、上間さんは石川高校で授業を受けていた。現場に駆け付けたころには、すでに米軍がバリケードを張り校内には入ることはできなかった。当時まだ16歳。「MP(軍警察)とか警察官に何か言える立場ではない」。立ち上がる黒煙。わが子の名前を呼ぶ親たち。皆パニック状態に見えた。

 上間さんは7人きょうだいの次男。宮森小学校には3人の弟がいた。2人は無事だったが、末っ子で3年生の六男、芳武君だけ行方が分からなくなっていた。「(芳武君に)会えたのは夕方。もう帰らない人になっていた」。病院の関係者に運ばれ、無言の帰宅をした。「もう本当にショックで言葉も出なかった」


事故後、児童の保護者や地域の人が学校に駆けつけた。わが子を探す親の叫び声が飛び交っていた=1959年6月30日

 芳武君は明るくやんちゃで家族のアイドル的存在だった。やけどはなかったが、顔に青あざが一つあった。事故当時、ブランコで遊んでいた。「爆風でブランコごと15メートル吹き飛ばされた。トイレの壁にぶつかり亡くなったと聞いた」

 遺体と対面した時、母親は泣き叫び、父親は押し黙った。その後も事故のことを両親が語ることや、家族や近所で話題になることも一切なかった。「皆口をつぐんだ。思い出したくないから」



映画「ひまわり」


弟の芳武さんについて語る上間義盛さん=2018年6月、沖縄県うるま市

 石川・宮森六三〇会が2010年9月に発行した証言集「沖縄の空の下で①」に芳武君のいた学級の担任の証言が掲載され、初めて芳武君が亡くなった時の状況を知ることができた。

 証言によると状況はこうだ。事故当日、2校時終了後のミルク給食の時間、芳武君が花壇から1本のヒマワリの花を取り、担任に差し出した。担任が「花壇の花を取ってはいけない」と注意すると、芳武君は「だから先生にあげるよ」と言って教卓の上に花を置き、外に出た。ブランコで遊んでいた時に犠牲になったということだった。

 この証言を中心に宮森小学校ジェット機墜落を題材にした映画「ひまわり」が2012年に製作された。「担任が勇気を出して証言した内容を読んで初めて、こういうことがあったんだなと分かった。『ひまわり』という題名の映画化にもなった。たくさんの人に見てもらい、沖縄の現状も知ってもらえた。非常に良かったと思っている」と振り返った。



警察官としての思い

 日本復帰前の沖縄で上間さんは琉球警察として警察官の職務についた。タクシー強盗など罪を犯す米兵の逮捕にも携わった。「犯人が本国に帰り、行方が分からなくなることもあった。でたらめだ。日米地位協定も見直さなければならない。いつまでも泣き寝入りではいけない」

 ほかの遺族らと同様、上間さんも証言集が出たころから、弟を亡くしたことについて話すようになった。「多くの人に知ってほしい。二度とこのような悲惨な事故を繰り返してほしくない」

 沖国大への米軍ヘリ墜落、普天間第二小への米軍機窓枠落下。米軍機による事故は何度も繰り返される。上間さんは「偉い人は『負担軽減』と言うが逆だ。名護市辺野古に基地が完成したら同様な事故が発生する恐れは十二分にある」と懸念する。「あまりにも基地を沖縄に押し付けている。基地がある限り、いつ何時このような悲惨な事故が発生するかもしれない。やはり基地は縮小、無くしていかないといけないんじゃないですかね」。淡々とした語り口調に、弟を亡くした悲しみ、いまだ沖縄を苦しめる米軍基地への憤りが込められていた。

(宮城久緒)




奪われた幼い命 ―宮森小 米軍ジェット機墜落事故― はこちら



関連するニュース







  • お知らせ


  • 琉球新報デジタルサービス



  • 会員制サービス






  • 他のサービス