基地問題に揺れる 普天間返還、実現せず 国との法廷闘争も〈平成の県政 中〉


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名護市安部の海岸に墜落した普天間基地所属の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイ=2016年12月14日、名護市安部(ヘリから花城太撮影)

 1995年9月に発生した米兵による少女暴行事件を契機に米軍普天間飛行場の返還が日米で合意された。だが、その後の日米両政府は移設先を米軍キャンプ・シュワブ沖の名護市辺野古沖に決めた。県民はこれまでの選挙などを通し、一貫して辺野古移設に反対する意思を示してきたが、両政府は民意を顧みる姿勢を見せていない。大田昌秀知事と翁長雄志知事時代には基地や辺野古を巡り国との法廷闘争にも発展した。平成の時代は米軍基地問題が県民を翻弄(ほんろう)し続けた。

高まる反基地感情

 大田昌秀知事(当時)は95年9月、少女乱暴事件で高まる反基地感情を背景に米軍楚辺通信所の返還に際し、土地強制使用のための代理署名を拒否した。同年12月には、村山富市首相(当時)が大田知事を相手に職務執行命令訴訟を提起。福岡高裁那覇支部は96年3月、大田知事に代理署名を命じる県側全面敗訴の判決を言い渡し、同年8月に最高裁は上告を棄却し、大田知事の敗訴が確定した。

 日米両政府は96年12月のSACO最終報告で米軍普天間飛行場の全面返還を含む11施設、5002ヘクタールの土地の返還に合意。普天間飛行場に関しては「5年ないし7年以内に十分な代替施設が完成し、運用可能になった後、全面的に返還する」と決定したが、いまだに返還の見通しは立っていない。辺野古を巡っては、97年12月にあったヘリ基地建設の是非を問う名護市の住民投票で反対が過半数を占めたが、当時の比嘉鉄也市長はその2日後、移設受け入れを表明し、突如、市長職を辞した。

米軍人による少女乱暴事件への抗議で参加者が8万人規模に膨れ上がった10・21県民大会=1995年10月21日、宜野湾海浜公園

「苦渋の選択」

 大田知事は98年2月、米軍基地の整理縮小を求める立場から代替施設の受け入れ拒否を表明したが、大田氏に続く稲嶺恵一知事は99年11月、15年使用期限や軍民共用という条件を付してこれを受け入れる「苦渋の選択」をする。

 その後2004年に米軍ヘリ沖国大墜落事故を契機に米軍再編協議が進み、辺野古移設計画にも見直しが加えられた。06年、在日米軍再編に関する閣議決定でV字形滑走路の沿岸案が正式な政府の方針となり「15年使用期限」などを尊重するとした1999年の閣議決定は廃止された。

 2009年に誕生した民主党政権で当時の鳩山由紀夫首相は「最低でも県外」と表明したが曲折の末、10年6月28日には移設先を「キャンプ・シュワブ辺野古崎地区と隣接する水域」と定めた日米共同声明が発表されるなど、県民の期待は裏切られた。

6度目の法廷闘争

 12年には普天間飛行場に垂直離着陸輸送機MV22オスプレイが配備されたほか、16年12月には名護市安部の海岸に同機が墜落する事案も発生。16年4月には米軍属女性暴行殺人事件も発生し、米軍関連の事件・事故は後を絶たない。

 14年11月の県知事選では辺野古沖の埋め立てを承認した仲井真弘多氏を破り、翁長雄志氏が当選を果たした。翁長知事が埋め立て承認を取り消したことで国は代執行訴訟を提起し、再び県と国との法廷闘争に発展した。これまでに県と国が双方を訴え合う形で辺野古を巡る法廷闘争は6度目に及んでいる。

 国際政治に詳しい我部政明琉球大教授は平成の時代に日本政府が実施した一連の米軍基地関連の施策について「中国の台頭など日本のアジアでの地位が落ちていく中、米国に頼ることによって影響力を維持しようとしてきた」と分析する。その上で「アメリカのプレゼンスに依存するだけでは日本の国力縮小は続く。日本政府は沖縄の言うことを聞けない思考停止のわなにはまっている。そのわなから抜け出すには日本人自身が自覚することが必要だ」と指摘した。
 (当間詩朗、明真南斗)