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<メディア時評・九条俳句不掲載>「公民館の自由」争点に 市民、報道の警鐘が不可欠


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
「九条俳句」市民応援団のホームページ

 2万――この数字は、全国を網羅する数として使われてきた。たとえば、就学児童がだれでも徒歩圏で通えることを原則とする公立小学校は2万弱(2017年現在、私立を含めると2万95校)、かつては3万校近くあったが年々減少し、17年に初めて2万校を割り込んだ。以前から、小学校同様にどこにでもある街の風景として存在してきた郵便局も、ほぼ同じ2万局をキープし続けている(19年現在で2万74局、簡易郵便局を含めると2万3963局)。

インフラの2万

 ちなみに、街の本屋も1990年代までは2万3千店を数え、日本は世界でも稀な全国どこにでも書店がある国として存在していた。しかし残念ながら、近年急速に廃業しており、18年には1万2026店まで落ち込んだ(図書カード端末機を設置しているような書籍をそれなりに販売する店舗は9千店未満とされる)。同様に、日本独特の毎朝戸別配達を実現している新聞販売店数も2009年、初めて2万を割り込んだ(18年現在、1万5802店舗)。その意味で、全国を網羅している民間施設はコンビニで、1992年に主要7社の合計店舗数が初めて2万を突破、現在は6万店舗に近づいている(17年にはセブンイレブン1社だけで2万店舗を突破)。

 この2万という数は、いわば全国をカバーする流通インフラとしての、一つの基準数ということができるだろう。あまり知られていないが、もう一つ、ほぼ匹敵する数の公共施設として、戦後の日本社会に存在し続けてきたのが「公民館」である。全国の公民館数は1万4841館(類似施設を含む)、一般にはより馴染みがある図書館が3331館、博物館に至っては1256館(類似施設を含めると4434館)であることを思うと、その数は突出していることがわかる。公民館で働く職員数も5万人近くあり、この数からも日本の社会を支える基盤になっていることが伺がえる(いずれも文科省「社会教育調査」15年度)。

 ただしこの公民館、ここに挙げたほかの社会施設とは少し異なった歴史を持つ。いわば戦後生まれの民主主義の申し子であるという点である。

社会的役割

 公民館は、図書館や博物館と並び、社会教育法に基づく公共的な社会教育施設として、全国の地方自治体に設置されている。前二者が戦前から、しかも世界共通に存在する施設であるのに対し、公民館は各地域の日常生活圏に根差し、様々な学習文化活動の拠点になってきた日本独自の施設である点が異なる。

 1946年、当時の文部省は、地域住民の教え合い・学び合いや、自主的な学びの支援をコンセプトとした施設として設立を奨励し、法によって制度化したほか、積極的な財政支援も行ったことで、一気に普及したといわれている(文部次官通牒により設置が奨励されたのは、日本国憲法や教育基本法、社会教育法の交布前であった)。

 さらに、公民館業務に密接な関係がある社会教育専門職員の資格を国家資格とし、専門職員の養成や配置のための施策が講じられたことも、普及の後押しになったといえるだろう。60年には公民館未設置市町村解消10カ年計画が策定されるとともに、前年の59年には「公民館の設置及び運営に関する基準」が文部省告示として出された。

 沖縄でも復帰後、公民館が各地で整備され、本土と同様の学びの機能をもつことになるが、むしろ一般の住民にとっては、選挙投票所であったり、住民健診(定期健康診断)の会場としてのイメージが強いかもしれない。あるいは、図書館がない地域にとっては、幼少時に通った公民館図書室は馴染みのある空間でもあろう。

 このように、学校、保健所、博物館、図書館、町内会、さらには各種NPO団体との連携の中で、いわば「何でもあり」の学びの公共空間としての役割を果たしてきたわけだ。しかし一方で近年、公民館(やその他の公共施設)で開催される住民の集会や学習会、映画や演劇の上映会などが、内容が政治的であるという理由で利用を不許可にされる事案が発生してきている。

 全国的に有名になったのは、「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」の俳句を巡る一件だ。さいたま市の地区公民館で、利用団体の俳句会の秀作を毎月の公民館だよりに掲載していたところ、当該俳句に限り不掲載になった事件だ(14年6月に公民館に提出)。公民館で俳句会が行われることも、公民館だよりが発行されている事も、そして刊行物に活動が紹介されることも、極めて一般的な光景であるなかでの事件で、しかも当事者が運営母体の市に抗議をし、翌15年6月に裁判に訴えたことで、法制度上の論点が明確化されたということだ。

 逆に言えば、事案自体はどこにもありそう、起こりえることであるだけに、その帰趨が注目されていたが、昨18年12月最高裁で住民勝訴が確定し、同市教育長は改めて作者にお詫びをし、句が掲載された「三橋公民館だより」が発行された(詳細は、「『九条俳句』市民応援団」ウエブサイト参照)。教育委員会は、この俳句が公民館の「公平・中立性」と相容れないとして不掲載決定をしたわけだが、1審で、思想・信条を理由とした不公正な取り扱いで、句が掲載されると期待した女性の権利を侵害したと認定、2審でも、集団的自衛権の行使について世論が分かれていても、不掲載の正当な理由にはならないとして女性の人格的利益の侵害を認めていた。

 直接的には当該作者の人格権的利益が争点だが、まさに「公民館の自由」が争われたといってよかろう。これまで、図書館については〈図書館の自由宣言〉に代表されるように、図書館利用者の読む自由を含め、表現の自由との関係で多くの議論がなされ、その経験の上で、公共図書館が日本では地方自治体による運営であったとして、行政とは完全に独立した立場で運営されることが不文律とされてきた。そして博物館についても、東京や名古屋などでの美術館展示の撤去騒動などを通じ、作家や学芸員の中で議論が巻き起こり、芸術表現及び批評活動における表現の自由の確保についての意見表明などもなされている(たとえば、国際美術評論家連盟日本支部)。

 今日、公民館はただでさえ、自治体行政改革の中で不要論が広がるなど、その維持が困難な局面を迎えているともいえる。そうした中でこそ、改めて公民館のよってきた存在意義や、その活動が市民社会に根付いたものであって、むしろ行政とは一線を画した自由な公共空間が維持されるべき大切な存在であることを、確認しておく必要があるだろう。そしてもう一つ、この事件が大きな注目を浴び、泣き寝入りさせなかった要因の一つは新聞報道であったとされる。東京新聞が事件発生直後の7月に記事化し、その後も大きな扱いで問題を提起し続けた。

 5月3日は「報道の自由の日(press freedom day)」、その自由を守る主体は市民社会を構成する私たち一人ひとりであるが、報道機関がアラーム役として声をあげる存在であり続けることも不可欠である。

 

(山田健太、専修大学教授・言論法)