社会

「悲しみを遠ざけてきた」 当時6年生だった男性 時を経て見つめ直す 沖縄・小学校へのジェット機墜落から60年

 1965年6月30日午後、米軍ジェット機墜落事故の犠牲になった児童や住民の七回忌慰霊祭が宮森小学校で開かれた。作家の武者小路実篤が描いた地蔵画の銅板をはめた「仲よし地蔵」の除幕式もあった。


犠牲となった児童や住民を悼む七回忌慰霊祭。「仲よし地蔵」がこの年建立された=1965年6月30日、宮森小学校

 「私たちはこのように成長しました。もしあなたたちも不幸に遭わなければ一緒に勉強できたのに…」

 当時6年生で児童会長の清水洋一さん(65)=浦添市=は亡くなった子どもたちに語り掛けた。現在、教授として琉球大学に勤める清水さんは「事故は負傷者や遺族の人生を左右した。それを背負いきれるか分からない。しかし、今なら感じることができる」と語り、事故を見つめ直す。

 事故の日、宮森小と同じ敷地にある幼稚園にいた。米軍機が墜落し、機体が大破した瞬間、火の粉が右足の甲に当たった。とっさに担任が清水さんを抱きかかえ、窓から校舎の裏手に投げ出してくれたおかげで難を逃れた。肌に感じた熱をかすかに覚えている。同級生の中には負傷した子もいた。そのような子と学校で接し「あの時のけがだ」と気付くことがあったが、事故のことを話題にすることはなかった。成長を重ねる中で事故の記憶は薄れていった。


事故当時、幼稚園生だった清水洋一さん。米公文書の翻訳作業にも関わった=西原町の琉球大

 大人になっても事故を振り返ることがなかったが、この数年、「被害に遭った人々の苦しみや悲しみを遠ざけてきたのかもしれない」という思いが募るようになった。事故でけがをしたわけではないし、トラウマに苦しんでいるわけでもない。しかし、このままでいいのか。「まともに事故と向き合うことを恐れていた」という自分を見つめ直すようになった。

 その頃、宮森小の先輩らが事故の証言を集め、語り継ぐ石川・宮森630会を結成したことを報道で知り、「自分も何かの役に立てれば」と願うようになった。4年半前、630会が企画した座談会に参加し、同級生らと事故について初めて語り合った。知らない事実がたくさんあった。

 昨年、630会からの依頼で米公文書の翻訳を手伝った。生々しい傷を負った児童の写真を目にした。「あの時は彼らがどんなに苦しんだか想像できなかった」と率直に振り返る。翻訳作業は当時の同級生の苦しみを思いやることができなかった過去の自分を問う作業だった。

 米公文書の翻訳文を収めた資料集「石川・宮森の惨劇」が6月、発刊された。事故から60年を経て、清水さんは宮森の悲劇との対話を繰り返している。「真相がより明らかになれば」と強く願っている。

 (砂川博範)