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<評伝>八代亜紀さん 天賦の才と培った表現力


<評伝>八代亜紀さん 天賦の才と培った表現力 1980年12月、第22回日本レコード大賞を受賞した「雨の慕情」を歌う八代亜紀さん=帝国劇場
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 昨年12月30日に死去した八代亜紀さんの代表曲「雨の慕情」や「舟唄」は、聴き手の記憶を掘り起こし、胸の奥にしまった悲しみや、遠く離れた故郷を思い出させた。心に染み入る歌声は、天賦の才と現場で培った表現力のなせる業だった。

 父親の浪曲を子守歌代わりに聞いて育ち、歌手を目指して熊本から上京した。ジャズから流行歌までリクエストに何でも応えなくてはならなかった銀座のナイトクラブ時代が「原点」となった。

 「立ち上がってダンスを始めたり、椅子の向きを変えて聞き入ったり」と、クラブでさまざまな楽しみ方をする客との真剣勝負。その歌のすごさにホステスが感動し、涙をあふれさせたとの逸話も残る。

 「悲しい歌こそ、楽しい声で。楽しい歌は切なく歌おう」と心に決めたのは18歳。

 手のひらを上に向ける八代さんの振りも人気を呼び、日本レコード大賞受賞のほか、NHK紅白歌合戦の大トリで披露した「雨の慕情」(1980年)。失恋した女性の思いを表す阿久悠さんの歌詞を浜圭介さんのメロディーに乗せた歌は、どこか吹っ切れた明るさがあった。

 もともとはコンプレックスだったというハスキーボイスを生かす歌唱スタイルは71年のデビュー後、一貫していた。演歌の“女王”として確固たる地位を築いても、安住することはなく、2012年には自身のルーツの一つであるジャズのアルバムを発表。翌年には米ニューヨークの有名ジャズクラブで公演した。

 「ジャズはとても自由。『ここにこぶしがあって』とか、(約束事に)縛られている演歌にジャズの要素を取り入れると、楽しく歌えるようになる」と生前語っていた。

 ジャンルにとらわれない挑戦で広げた表現の幅。それは「歌謡界を背負っている責任を感じている」ことの裏返しだった。周囲には「歌が駄目になったら遠慮なく言って」と伝え、自分を厳しく律していたという。

 晩年のインタビューで「皆さんが一枚一枚買ってくださり、ヒットが生まれるのだから、その幸せや楽しみを共有したい。『ありがとうの交換』をしながら死んでいくのが、これからの目標です」と朗らかに語っていた。人生に寄り添う名曲を残してくれたことに今、心からお礼を言いたい。

(瀬野木作 共同通信記者)