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<原田禹雄先生を悼む>又吉靜枝 綺麗なまま冊子を保管


<原田禹雄先生を悼む>又吉靜枝 綺麗なまま冊子を保管 原田禹雄さん(左)と筆者の又吉さん=2009年1月
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 遺詠
 わが命一乗微妙の花となり
 散りゆきしなり 勝山町

 淡々と自分の死を見つめ歌を詠んだ歌人・医学博士・冊封使録の訳注者の原田禹雄(のぶお)先生。令和6年4月28日、96歳の天寿を全うし、この世に別れを告げ、オボツ・カグラ(神の居所)の世界へと旅立たれた。

 沖縄が大好きだった原田先生。私との最初の出会いから、57年の歳月が経っている。1967年11月の琉球新報社主催「第二回琉球古典芸能祭」にて、私は最高賞を受賞し、古典女踊り「諸屯(しゅどぅん)」を踊った。

 その頃、原田先生は琉球政府の派遣医で、ハンセン病の医者として初めて沖縄に来沖し、国頭、本部、宮古、八重山の学童検診に従事していた。ある日の診療後、友人を誘い名護から那覇市へ出てきた先生は、芸能祭へ足を運び、初めて琉球舞踊を鑑賞したそうだ。

 時は過ぎて33年が経ち、私が沖縄県立芸術大学に在職中、難解な明や清の冊封使録を紐解(ひもと)くために何度も読み返していた徐葆光(じょほこう)書「中山傳信録」(溶樹書林)の訳注者として名が記された「原田禹雄先生」の存在を知り、思い切って手紙を書いた。

 そして、お会いしたことも無く、どのような研究者かも知らなかったが、意を決して電話をすると、原田先生の第一声は「私は貴方(あなた)を良く知っていますよ」という思いがけない言葉だった。話を伺うと名護から出て来て鑑賞した芸能祭の「諸屯」が印象的で、それがきっかけとなり琉球芸能に深く入り込んでいったのだと仰(おっしゃ)ってくださった。その時のプログラムを大切に保管しているという話までされて、想像もしなかったありがたいご縁がここから始まった。

 私の研究作品である「入子躍(いりこおどり)」「仲秋宴(ちゅうしゅうえん)」「江戸上りの芸能」「修羅の縁(尚寧王と袋中上人再見)」等は、原田先生の存在があったからこそ復元することができた。

 原田先生との最初の出会いから電話やお手紙のやりとりが何年も続いていたが、今年の年賀状を最後に連絡が途絶えた。その後、ご家族よりご逝去の連絡を受けることとなった。

 原田先生は人生の半生を通して、冊封使録全11巻の訳注、それに毎年歌集を刊行していた。訳注された使録は多くの研究者に読まれ、琉球芸能の歴史を追究する貴重な文献資料となった。先生のご尽力や貢献は計り知れず、その偉業に敬意を表したい。

 京都へ行く度に、原田先生は色々な京都の美味(おい)しいお店へ連れて行ってくださった。なかでも四条にある中華料理の老舗「東華菜館」はお気に入りの場所であった。そこで大好きなナマコ料理を食し、京都の日本酒を飲み、時折、遠くを懐かしく眺めるような表情を見せながら、琉球の歴史や変遷を熱く語る原田先生のお姿が今でも目に焼き付いている。

 数年前、「これは貴方が持っていなさい」と受け取った原田先生と私との出会いとなった「芸能祭」のプログラムは、50年以上前のものとは思えないほど、綺麗(きれい)な冊子のままで大切に保管されていた。先生が琉球の歴史に魅了され、こよなく愛する気持ちが表れていた。冊子を手に原田先生との出会いを思い返す日が当分続くことになるだろう。

 私の心の恩師、原田先生を偲(しの)んで。どうぞ、安らかにお眠りください。合掌。

 (沖縄県立芸術大学名誉教授)


 原田禹雄さんは4月28日死去、96歳。