<未来に伝える沖縄戦>警報のたび山へ逃げた 平良森雄さん(77)上


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
平良森雄さん(左)の沖縄戦の話に耳を傾ける(右から)比嘉明日香さんと宮城怜奈さん=大宜味村

 大宜味村に住む平良森雄さん(77)は沖縄戦の時、米軍の空襲や艦砲射撃を避けるために山の奥で避難生活を送りました。劣悪な衛生環境や飢えに苦しみ、米軍の襲撃におびえながら戦時下を生き延びた平良さんの体験を、大宜味中学校3年の比嘉明日香さん(15)と宮城怜奈さん(14)が聞きました。

    ◇    ◇
 幼少のころはやんばるの自然の中で過ごした。川で遊んだり、海や山で遊んだりした。1942年(昭和17年)ごろに大きな台風があって、自宅が流された。それがきっけとなって、父が大工として働いていた那覇に家族全員で引っ越すことになった。
 那覇で生活していた1943年(昭和18年)ごろには大人たちの間で戦争の話題が増えるようになってきた。僕らが通っていた久茂地国民学校でも疎開するという話が出てきて、それでわが家はどうするかという話になった。県外に疎開するよりは大宜味に戻る方が安全だということになって、再び故郷に戻った。
 やんばるに戻ってからしばらくすると日本脳炎がはやって、友達が亡くなった。その子の告別式に行って、帰ってきてしばらくしたら僕も同じ病気になった。それからは学校に行けなくなった。
 1944年(昭和19年)ごろになると、学校では授業がほとんど開かれず、防火訓練が行われていた。でも僕は病気が長引いて寝込んでいたので、参加できなかった。
 当時は大宜味でも空襲警報が鳴っていて、そのたびに山の方に避難していた。僕は病気で寝たきりだったので、警報が鳴るたびに祖父がおぶってくれた。戦争の時期だったけど、父も月に1度は那覇から来てくれて空襲警報が鳴ると僕をおぶって逃げてくれたよ。

※続きは4月28日付紙面をご覧ください。