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<メディア時評・ネット選挙の解禁>政党優位助長の恐れ 情報伝達の制度で適切か


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 いよいよネット選挙解禁に向けて秒読みが始まった。現行の公職選挙法142条において、「選挙運動のために使用する文書図画は、はがきやビラ以外頒布できない」と規定されており、総務省は、Webサイトや電子メールが「文書図画」にあたると解釈を示している。したがって、サイトやメールを使うことは、候補者も第三者もできないというわけだ。

 これに対し、いま準備されている改正案骨子は、フェイスブックやツイッター、ブログやホームページ(ウェブサイト)など、全てのインターネット利用を、候補者とともに一般有権者も含め全面解禁するというものだ。一方で、メールについては成りすましや誹謗(ひぼう)中傷の拡大する懸念があるとして、利用を政党と候補者に限定する案が浮上している。
 こうした解禁議論は15年越しのもので、すでに政府の研究会でも原則自由化の報告者が出されてもいる。ただし、日常生活で広く普及しているネットが使えないのはおかしいという、素朴な感情としては理解できるものの、選挙における表現活動全体の基本構造を考える場合、単に自由利用を認めれば問題が解決するものではないことに注意が必要だ。

■選挙中の表現行為

 そもそも、選挙期間中(選挙公示日から投票前日まで)の表現行為は、各国独自の制度が存在しており、日本だけが「遅れている」といった批判はあたらない。その仕組みは、候補者の表現行為としての「選挙活動」と、メディアの表現行為としての「選挙報道」に大きく分かれ、前者は原則禁止とし、後者は原則自由とするのが日本の特徴だ。
 そして、選挙活動には候補者本人以外にも、応援する人という位置付けで有権者が含まれ、結果として一般市民の選挙に関する表現活動(特定の候補者を当選もしくは落選させるための言動)は、全面的に規制の網がかかることになっている。したがって、ネット上だけが厳しいのではなく、戸別訪問や事前運動の全面禁止に始まり、ポスターやビラや集会等も原則は禁止で、選挙管理委員会の定める条件の下で限定的に認められているにすぎない(例えば、ポスターは公設掲示板の指定番号にのみ掲出が認められる)。
 一方で、こうした厳しい規制の下、有権者に十分な候補者情報が伝わらないため、特定のマスメディアに対し社会的役割を負わせている。その一つが、テレビやラジオの政見放送・経歴放送と、新聞の選挙広告掲載だ。これらは、政府・自治体の負担で、候補者は放送や広告をすることが可能な制度が用意されている。
 また、二つ目として新聞・雑誌・テレビ・ラジオは、自由に選挙に関する番組や記事を報道することができる(ただし、公平な報道をすることが法で定められている)。まさに、選挙活動のマイナス分を、選挙報道によって補う構造になっているということだ。

■政党への無謬性信仰

 また近年は、小選挙区制度への移行に合わせて「政党」の比重が高まっており、政党交付金の支給といった財政的な国家助成のほか、表現活動についても破格の特別扱いを受けている。すなわち、選挙期間中も政党だけは「政治活動」という名の下に、なんら制約を受けることなく自由に広告を出したり、論評をしたりすることが可能である。これは、候補者の原則禁止とは真逆であるほか、メディアの報道でさえも一定の制約を受けるのに対し、いわばオールマイティーの自由を得ているようなものである。
 このように、日本にはその表現主体によって三つのカテゴリーに分けられ、表現の自由度がまったく異なっているわけだ。
 海外の場合はどちらかといえば、候補者の選挙活動は自由を広く認め、メディアの選挙報道をより制限的にしている例が少なくない。例えば、選挙予測報道や直前の世論調査結果の公表禁止などである。これは報道機関の多くが日常的に党派的であったり、当落予測が有権者の投票行動に意図的な影響を与えることが可能であるという理由などが挙げられることが多い。日本の場合は、新聞・テレビに代表されるように客観中立報道を旨としていることなど、メディア特性が異なる結果といえるだろう。

■自由度拡大は表面的

 こうした点からすると、選挙活動の原則禁止を維持したまま、ネットのみを解禁することのアンバランスさが分かるだろう。あるいは、政党を特別扱いする案は、表現領域におけるさらなる政党優位の状況を作り出し、逆に選挙期間中の情報が政党によってコントロールされる恐れさえ生じかねない。この政党に頼る構造は憲法改正時の国民投票においても当てはまり、選挙期間中に該当する投票期間中は市民等が憲法改正関係のテレビCMをすることは禁止されているのに、政党だけは自由に行うことができる仕組みになっている。その背景には、有権者は信頼できないが、政党は悪いことはしないという無謬(むびゅう)性信仰があるといえるだろう。
 しかし、大きな社会的勢力であり与党の場合はまさに公権力そのものである政党が、重要な政治選択の期間の表現活動を独占あるいは寡占することは明らかに好ましいことではない。むしろ、その自由度はせめて候補者同等にすべきだ。
 一方でまた、候補者・市民にネット上で自由な言論を与える一方で、メディアに対してはこれまで同様に公正さを法的に課しては、むしろメディアの自由が市民の自由を下回ることになり、これまた基本構造を歪(ゆが)めるものにほかならない。しかも、ネット解禁によって、新聞やテレビに頼る必要がないとして、政見放送や選挙広告の縮減が次の課題になることだろう。こうした傾向は、一見、自由度を高めるように見えるものの、有権者に対する適切な選挙情報を伝える社会的制度としてふさわしいかどうか大いに疑問である。
 現在、各党は夏の参院選からのネット選挙解禁で一致しており、10会派で今後も協議を継続する確認書を交わしているとされる。早ければ、与党案を軸にした法案が来週にも提出され、短時間のうちに可決成立の見込みだといわれる。ネット解禁が一時的に表面上の自由を拡大することは間違いないものの、もっとも大切な、本当に有権者のためになり、適切な政治選択を可能とする自由で闊達(かったつ)な言論の場を確保するもになるのかどうかについて、より慎重な議論が必要だ。
 (山田健太専修大学教授=言論法)
 (第2土曜日に掲載)