「今こそ行動が必要」 米軍ヘリ宜野座墜落、22日村民大会


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「行動しなくては、現状は変えられない」と語る島田久美子さん=15日、宜野座村松田

 【宜野座】米軍HH60救難ヘリ宜野座墜落事故から、19日で2週間を迎える。米軍は事故原因を究明しないまま同型機の飛行訓練を16日に再開した。

宜野座村は米軍機の飛行訓練中止を求める村民大会を22日に開く。米軍普天間飛行場の辺野古移設に反対してきた島田久美子さん(56)=松田公民館図書室長=は、同大会に女性代表として登壇する。戦後も続く基地被害を断ち切るためにも「子や孫の時代に危険な生活を残したくない」と訴える。
 普天間小、普天間中、普天間高校を経て沖縄国際大学を卒業した島田さんの生活は、常に基地被害と隣り合わせだった。幼児期は米軍機の騒音におびえて泣き、押し入れに逃げ込んだ。学生時代、黒板に最も近い席でも先生の声がかき消された。嘉手納弾薬庫から毒ガスが県外に移送された1971年、「ガスが漏れれば何をしても無駄だから、家族と一緒に居なさい」と真剣に語る先生の表情が今も忘れられない。そんな生活が終わると期待した72年の本土復帰は「米軍基地は残ったままで、何も変わらなかった」。
 結婚後、夫の実家がある宜野座村松田区に嫁いだ。野鳥の鳴き声と遠くの潮騒が聞こえるほど静かだった。「人の住む場所はこうであってほしい。子どもが生まれ、守りたい人が増えるほど基地被害の深刻さを実感した」
 96年4月、日米が米軍普天間飛行場の全面返還に合意し、名護市辺野古への移設問題が浮上した。そのころから松田区でも米軍機の騒音被害が目立ち始めた。
 子どもたちは敏感に反応した。97年、松田小の児童が「米軍機の騒音はいやです」と作文で訴えたことを機に区民が立ち上がった。
 「私が普天間で受けた騒音被害を松田の子も受けている。今も昔も変わってない」。島田さんは他の保護者らと共に「子どもの未来を守る松田父母の会」を結成した。97年12月には基地問題に関する意見交換会を開いた。行政に頼らず、地域で呼び掛けた集会には250人余が詰め掛け、署名など活発な取り組みを展開した。あれから16年。基地の過重負担による被害は続いている。
 「私たちは次代を担う子や孫のために何をしてやれただろうか。日々の暮らしも大変だけど、行動しなければ今も将来も変わらない」
 村民大会への登壇を決めたのは反省の思いからだ。「波風立てたくない大人になったことを猛省している。大会では言いたいことを言わなければならない」。島田さんは拳を握りしめた。(嘉陽拓也)