<メディア時評・ヘイトスピーチ規制>求められる予防と救済 独立した人権救済機構を

 今週はじめ、ヘイトスピーチ(憎悪表現)をめぐる民事裁判で、損害賠償や行動の制限が認められる判決があった。これを受け、本紙社説をはじめ、これらの聞くに堪えない言動を、法によって規制すべきだという声が高まっている。

■差別の歴史と対応

 これまでも日本国内で、差別表現が問題になってこなかったわけではない。法の下の平等が保障された現憲法下に限定しても、被差別部落に対する言動は日本社会の根深い差別構造と結びつき、過去も現在も大きな問題を抱えている。外国人、とりわけ韓国・朝鮮人や中国人に対しては、過去の植民地意識の影響や政治的敵対関係の情勢のなかで、新たな差別意識が助長され、絶え間ない差別表現の対象となってきた。
 そしてこうした差別言動は、日常の生活レベルでも、そして政治家の公的な場においても、繰り返しなされ、当事者や人権団体等によってその解決が求められてきた経緯がある。もちろんそれ以外にも、女性や障害者など、いわば社会のマイノリティーは常に差別にさらされ、そして差別表現を浴びてきた。
 では、なぜ「いま」新たに法によって表現を規制する必要があるのだろうか。一つには、インターネットによって心ない表現が広範にしかも瞬時に拡散することを止めるには、強力な「法」という力を借りる必要があるとされる。二つには、一部の民族主義的市民グループが、一般市民を巻き込む形で市中において自由に堂々と差別的街宣活動を行うことで、当事者に恐怖を与え続けており、こうした行動を止めるためには既存の「法」では対応できないとされる。さらに三つ目としては、国際社会から人権後進国との烙印(らくいん)を押されないためにも、人種差別撤廃条約の締結国として、いち早く国際標準に沿った「法」制度を整備すべきだとされる。
 もちろん、これまでも政府はこうした差別言動に対し無策であったわけではない。被差別部落に対する差別構造の解消のためには、各種の特別法をもって対応してきたわけで、その流れは現在の人権啓発法に引き継がれている。また、法務省の人権擁護制度は、行政による個別の人権侵害救済を実施してきた。その延長線上に、人権擁護法(人権救済法)構想が存在するといえるだろう。女性差別や障害者差別に対しては、男女雇用機会均等法や障害者差別解消法によって、分野別に差別の禁止に伴う形ではあるが、その言動も部分的に制約をかけてきた。

■法規制回避の理由

 一方で、意図的に表現の自由を優先させてきた背景を、いま一度考えておきたい。一つには、現憲法における表現の自由の絶対性である。国連人権規約や欧州人権条約にも見られるが、多くの国では表現の自由は絶対ではなく、例外が定められている。例えばそれは、「公の利益に反しない限り」といった但(ただ)し書きである。そしてこの具体的な領域として、人種差別表現や子どもポルノは、最初から憲法の保障外、すなわち表現の自由の土俵からはずしている。
 表現物の発表は認められ、それが事後的に司法の場で是非が審査されるのではなく、はじめから社会に存在することが許されない表現行為であるということだ。だからこそ、ナチズムはその思想自体が許されないのであるし、子どもポルノは単純所持と呼ばれ、持っていること自体が罪となるのである。
 日本は戦後、こうした法による例外を認めることを許さない憲法体系にした。それはまさに戦争の反省によるものだ。「法律ノ範囲」という言葉によって、憲法よりも治安維持法等の言論立法が優先され、表現の自由がことごとく踏みにじられたからである。
 そして二つには、これとの関係から日本は表現の自由モデルとして「対抗言論」(思想の自由市場理論)を採用してきている。もちろん、こうした考え方が楽観的に過ぎるという批判はあるにせよ、少なくとも戦後60年間において、破綻なく表現の自由市場が維持されてきたという事実は重いだろう。もちろん、この間、部落差別言動については、当事者団体による監視と責任追及によって、少しずつではあるが減少してきたという歴史がある。しかも日本の場合、こうした対抗言論によって表現の淘汰(とうた)がなされてきた背景には、社会における主たる表現の自由の担い手であった、マスメディアによる強力な自主規制が一定程度正常に機能してきたということが挙げられるであろう。

■憎悪表現への対処法

 以上の経緯からすると、なぜいま、一足飛びに法規制をしなくてはいけないか、について十分説得的であるとは思えない。むしろ、これまでの日本の表現の自由モデルを壊すことで、表現規制の口実を公権力に与えるものといえるのではないか。例えば「差別」や「公の利益」に反する表現を誰が判断するのかを考えると、そうした表現規制の危険性は想像に難くない。
 あるいはまた、新大久保における在日コリアンに対するヘイトスピーチに対しては、それに反対するグループによる対抗的抗議行動が実行され、「お散歩」と称されるヘイトスピーチを繰り返しながら路地を練り歩く行為は中止に追い込まれている。いわば、ある種の対抗言論によって、実態は変わっているといえるだろう。さらには、こうした差別的言動を、法によって押さえつけたとしても、その根本的な差別構造や差別意識は残り、むしろ押さえ込まれることで内心においてより確信的になる可能性すらある。そうであるならば、原点に戻り、さらなる教育や啓発にまず、力を入れるべきではないか。
 その第一歩は、公的な場で繰り返される政治家の心のない差別発言を、社会がより厳しく糾弾することの必要性である。こうした政治家の歴史認識や差別意識を改めさせることこそが先決であって、彼らのもとで新たな規制法を作り、彼らの意思のもとで法を運用するなど、まさに本末転倒というほかはない。
 あるいはなんらかの一歩進んだ制度整備をするのであれば、まずは政府から真に独立した人権救済機構の整備に努めるべきであろう。こうした努力をすることなしに、「集団的名誉毀損(きそん)罪」等の新設や、公安目的にデモ規制を強化するといった、安易な法規制に走ることは許されまい。
(山田健太 専修大学教授・言論法)