<未来に伝える沖縄戦>戦後知らされた父の死 安村毅さん(76)下


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疎開先で懸命に働いた母の様子や、食べ物を分けてもらって暮らしたことなどを語る安村毅さん=10月29日、うるま市天願の安村さん宅

 《安村毅さん(76)の一家は5日間船に乗り、1944年8月23日、鹿児島に着きました。疎開先が宮崎県西諸県郡高原町と告げられます。29日、下宿先の高原町後川内公会堂での生活が始まりました》

 私たちは国から命令された疎開だったから「いらっしゃい」とごちそうで迎えられ、町長の歓迎も受けた。母は公会堂に着くとすぐに土地を耕し、野菜の種をまいた。町の人たちは班ごとに食べ物をくれた。

母が「お礼に」と手伝いをすると、また食べ物をくれた。町の人々も男は兵隊に行って仕事手が足りなかった。母は毎日出掛け、まきを取りに行ったり、針仕事をしたりした。
 私は普段は学校に行き、あるときは初雪を体験し雪合戦をした。秋になると山に柿を取りに行ったり、上級生に芋掘りに連れて行ってもらったりした。私たちの疎開先は空襲もなく、遠くに飛行機が飛んでいるのが見えるだけだった。割と食べ物にも恵まれていた。ぜいたくはしていないが三度三度、何かは食べられた。

 《45年8月15日、一家は疎開先で終戦を迎えました。母・静さんは海外から戻る復員兵を見ながら、父・光友さんの帰りを待ちます。しかし46年9月、光友さんの死亡告知書が届きました。光友さんは一家が疎開する前の44年3月11日に、南太平洋のブーゲンビル島で戦死したとのことでした》

 父は私が国民学校1年になる前に死んでいた。それが戦後にしか知らされなかった。朝、母から「おとー、うらんなたんどー」と聞いて、私は学校まで1キロぐらいの道を泣いて行ったのを覚えている。その後、親戚のおじさんたちが家に来るとおばさんたちが「おとーだよ」と冗談を言いよった。私が「え? まさかー」と言いながら内心喜んでいると「おじさんだよ」とからかわれた。こんなことが何回もあった。自分の父親の顔も分からなかったから。

※続きは11月10日付紙面をご覧ください。

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<未来に伝える沖縄戦>軍への興味、歌で教育 安村毅さん(76)上