「平和」手渡すため奔走 沖子連束ね34年、玉寄会長が退任


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34年間会長を務めた沖子連の活動などを振り返る玉寄哲永さん=那覇市の琉球新報社

 復帰後の沖縄で子ども会立ち上げのため県内中を奔走、子どもの健やかな育ちを見守り、県子ども会育成連絡協議会(沖子連)の会長を34年務めた玉寄哲永さん(79)がこのほど、退任した。

小さなカンプーを結い、柔和な笑みを絶やさない玉寄さん。子どもが巻き込まれた米兵絡みの事件や「集団自決」(強制集団死)教科書検定問題など、数々の県民大会で実行委員会の要職を担い、怒りを訴えてきた。沖縄戦で空白となった子ども時代を原点に、子どもの生きる力を引き出し、平和な世を手渡そうとしてきた日々は「使命だった」と振り返る。
 那覇市立松島小学校で初代PTA会長を務めた後、1979年5月、4市村で結成した沖子連の会長にと請われ、悩んだ末に引き受けた。説明に1カ月かかった地域もあれば、学習に特化してほしいと難色を示す保護者もいた。「子ども会とは地域で仲間をつくり、地域を知る活動だ。子どもの『できない』を『できそう』に変え、知恵や意欲を出せるよう手伝うのが大人の役目」
 最盛期は県内450地区、3万5千人に手が届きそうだった子ども会だが、共働き家庭が増え、市町村合併が進んだころから減り始め、現在は約300地区、2万人ほどだ。それでも子ども会活動の持つ力を信じる。「学力最下位などと言ってめそめそするが、子どもに必要なのは生きる力の基礎じゃないのか」
 10歳の時、10・10空襲で父が那覇市辻で営んでいた仕出し屋が全焼した。米軍上陸で家族と南へ逃げた。父は日本兵から拳銃を突き付けられ、少ないかゆを奪われた。代わりに手りゅう弾2個が手渡された。砲撃に飛び散って死んだ人たちを見た。数え切れないほどの腐乱死体の上にはハエが群がった。
 保護され、収容所で母から「もう逃げんでいい」と言われたことを忘れない。「初めて先があるような気がした。それが平和の原点。難しい言葉じゃない。人間が生きることを体で悟った」。“地獄”を見た者として、次の世代にこそ「もっと安心できる社会を」と願い、沖縄戦の語り部を続けている。(石井恭子)