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<メディア時評・政府批判の自由>異なる見解、抑え込む 「公正中立」理由に圧力


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 それぞれの事象に関連性はないかもしれない。しかしその「一連」の出来事に、ある種の気持ち悪さを感じる人がいるとすれば、それは今の世の中の表現の自由をめぐる「空気」を表すとも言えるだろう。

環境省の「反論」

 今年の3月11日は、新聞やテレビで多くの東日本大震災特集報道がなされた。その一つに、テレビ朝日の「報道ステーション」があった。約40分の特集企画で、福島県内の子ども(事故当時18歳未満)の甲状腺がんを扱った番組だった。
 福島県が行った「県民健康管理調査」の実態を検証し、委託先の県立医大が発表した「(現在までに分かっているがん患者33人について)被曝(ばく)の影響とは考えにくい」との結論に疑問を呈した。
 ここで問題とするのは、その番組後の政府の対応である。1週間以上が経過し、突然ウェブサイト上で環境省の「反論」が公表されたからだ。今回の原発事故をめぐる健康被害については「公害」として扱うことで環境省の管轄となっているが、同省総合環境政策局環境保健部は3月20日ごろからウェブ上で「最近の甲状腺検査をめぐる報道について」を掲出している(日付が入っていないので日時の特定はできない)。また伝えられるところでは、環境省は同文を該当社にファクスと手紙で届けたほか、環境省担当の記者を通じて直接手渡してもいるようだ。
 文書の冒頭で、番組名を特定したうえで「事実関係に誤解を生ずるおそれもあるので、環境省としての見解を以下のようにお示しいたします」とし、甲状腺がんの発症と福島原発事故との因果関係や事故後の被曝線量についての環境省の考え方を説明するものとなっている。本文中には「お示しした理由のいくつかについては、本報道でも何人かの識者のコメントとして取り上げられており、報道内容全体をご覧いただけるとご理解いただけると思います」とも記されている。

強い心理的圧力

 確かに明らかな事実誤認があった場合などに、当事者としての政府機関が訂正を求める申し入れを行うことはあり得るだろう。それが意図的な悪意をもって故意でなされた可能性があると明白に判断できる場合や、事前に誤りを指摘しているにもかかわらず繰り返し報道がなされた際には、抗議をすることがあってもよいと思われる。しかし、見解が異なるとしてわざわざ個別番組に対して事実上の抗議を行うことが許されるかは別問題だ。
 番組では様々(さまざま)な専門家の見解を紹介し、現時点では因果関係が「わからない」ことを伝えることで、政府が強く「ない」ことを方向づけることにくぎを刺す内容となっている。そういう意味で政府の政策批判であることには違いないが、その批判が意図的に一方に偏ったものではないことは、先にふれたとおり同省の文面からも明らかで「報道全体からわかること」である。にもかかわらず番組を問題視するということは、一切の政府批判は許されないと言うに等しいことにならないか。
 もともと放射能汚染や被曝健康被害の問題は、当該地域や住民へ大きな心理的物理的影響を与えかねないことから、報道機関も細心の注意を払って報道している領域である。時としてそうした対応は、真実を伝えていないとして、メディア批判の対象にすらなってきた(もちろん、そうした批判が当てはまる事例があることもまた事実である)。そうしたなかで、公権力が被曝問題については政府見解以外の見方を報道するなと言わんばかりの態度を示すことは、報道機関全体に大きな影を落とすことになるであろう。
 とりわけ放送局は放送法上の規定で、事実報道や政治的公平さが義務付けされ、紙メディアに比してより強い心理的圧力を受けることになりかねない。こうした影響の可能性を考えず、行政機関が見解を発表したとなれば、あまりに現行法制度や原発をめぐる報道状況に無頓着に過ぎ、行政機関としても目配りが決定的に欠けていると言わざるを得ない。一方でもし、すべてを理解したうえで行った行為であるとすれば、まさに政府の強い「意思」があると判断せざるを得ないことになる。

究極の弱点
 それは、政府の最重要課題については一歩も譲らない、批判は許さず徹底的に制約するとの強い意思である。そして今回の事例はまさに原発政策の根幹にかかわる問題であり、原発再稼働方針を是(ぜ)とした場合、原発被害が広範に発生する可能性があることはどうしても認めたくない「不都合な真実」ということになるのであろう。その意味で、報道ステーションは「虎の尾を踏んだ」ことになる。
 こうした政府の究極の弱点に触れた場合、なりふり構わずその報道を抑え込むさまは、沖縄密約をめぐる外務省公電を報じた毎日新聞記者を裁判を通じて報道界から追放し、その後の沖縄返還、今に続く在日米軍基地への手厚いサポートを実現した45年前の状況と全く変わらないと言える。
 まさに政府とりわけ自民党政権にとって日米同盟関係や原発政策は、政権の根幹をなす中核的事項と言えるのであって、だからこそ死守する必要がある報道対象と言えるのであろう。
 そうした視点で考えるならば、自衛隊配備問題をめぐる琉球新報(2月23日付朝刊)の報道に対し「過剰」に反応した防衛省の行動もまったく同じであることが分かる。政府の批判のポイントは、沖縄メディアが政府の辺野古移設方針に反対し「偏向」しているということであって、その内実は政府に批判的な言説が報道や意見の大半を占める新聞は問題である、ということに尽きるからである。

本旨は公権力監視

 こうした傾向は自民党が政権復帰し、普天間県内移設・辺野古新基地建設を具体的に推進させようとしてきたここ1年あまり強まっている。元首相や大臣経験者を含む複数の政治家が名指しで媒体を批判したり、保守系論客がたびたび沖縄で講演会を開催し不買運動を呼びかける動きがみられる。これらに呼応するかのように、一部の民族系市民団体が政府方針に反対する政治家や市民に罵詈(ばり)雑言(ぞうごん)を浴びせ、ネット上の嫌がらせをするに及んでいる。
 メディアの報道原則として「客観報道」が謳(うた)われることがあり、日本でも戦後米国の影響を受け、報道原則の一つとしてその趣旨が新聞倫理綱領の1項目に採用されてきた。しかし注意が必要なのは、ジャーナリズムの本旨は公権力監視であり、その存在自体が常に政府の言動に批判的な立場をとることを当然に求められているほか、記者や編集者が主観的にニュースを取捨選択し、紙面や番組を作ることもまた当たり前のことである。
 その点からすればある事項に関し、政府の政策が誤っていると判断した場合、それに対し批判的な番組や紙面を制作することは批判の対象とならないばかりか、メディアとして当然の行為と言える。もし形式的な客観報道批判が成立するとすれば、オスプレイ配備や基地移設に反対する県民大会、度重なる米軍犯罪・事故を取り上げない在京の新聞紙面に対してこそ、問題ありと言ってしかるべきである。しかし、政府方針に抗(あらが)う立場の媒体のみを批判するところに、政府が公正中立を理由として政府批判に対する圧力をかけたいという意思が表れていると言わざるを得ない。
 本来であればむしろ選挙の結果とともに、県民の声を伝える地元メディアの紙面や番組を十分に政策に反映させることが求められているのであって、中央の意向に与(くみ)しない意見を抑え込もうとする対応は、民主主義のありようにも反する。
 琉球新報の記事に対し、異例の抗議を行った防衛省の対応は、こうした政府の行為を如実に示したものであるとともに、より一段と報道規制色を強めた措置であって看過できない。こうした動きが重なることで、まずは在京のメディアが批判を躊(ちゅう)躇(ちょ)するようになり、いまより一段と沖縄メディアの孤立化が進む可能性がある。また、放送メディアは放送法の規定を足がかりに、より厳しい制約を受けることになりかねない。そうした状況は、日本全体の言論報道の自由の幅を狭め、自由で闊達(かったつ)な言論公共空間を失わせることになるだろう。
(山田健太、専修大学教授・言論法)