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<メディア時評・国益とメディア>「お国のため」の危険性 言論の本旨は権力監視


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 「国益損ねた朝日、反省なし」「国益害した慰安婦報道」――これらはいずれも在京紙の9月12日付朝刊の1面や社説の見出しである。前日の朝日新聞の一連の記事に関する社長謝罪会見を受け、多くの新聞は大きなスペースを割いて、慰安婦報道、原発事故報道、連載不掲載問題について紙面展開をした。同様に総合月刊誌でも、「国益とメディア」「さよなら朝日」といった特集タイトルが背表紙を飾っている。同時期の週刊誌も含め、記事の中では保守系論客が朝日新聞の廃刊を求めるものも目に付く。こうした言説、新基地建設に反対する沖縄メディアに対する批判とまさにうり二つであることに気付く。「国益」に反する報道は許されない、という考え方である。

誤報とは何か
 もちろん、ジャーナリズムにとって「誤報」は命取りだ。それは最も高位の報道倫理である「真実報道」に反するからに他ならない。そして一般に、なぜ誤報が問題になるかを考える場合、その記事や番組が報道倫理に反することが一つの基準とされてきた。
 今回の朝日新聞の場合も、吉田調書(原発事故報道)の場合は、記者が調書の中から自分の主張に合う形で、いいとこ取りをしたことで、〈公正さ〉に反しているのではないか、が問われていると考えられるし、吉田証言(慰安婦報道)の方は、社自らが〈正確性〉に欠けると判断したことになる。さらに、訂正の遅れが多く指摘されており、これは〈誠実さ〉に反するものと言えるだろう。
 その結果としてかつての松本サリン事件のように、犯人視報道によって大きな権利侵害を及ぼすこともあり、これも誤報が問題だとされる理由の一つである。ほかにも〈真実追究努力の不足〉や〈表現の不適切さ〉、さらには〈意見と事実の分離〉も報道倫理上で問題になることもある。
 とりわけ報道倫理が強く求められる今日において、読者・視聴者の誤報に対する批判もこれまで以上に厳しくなっているともいえる。たとえば戦争証言に代表される当事者インタビューは、裏取りが事実上不可能な場合も多く、内容の不正確性はある程度織り込み済みという場合も少なくなかろうし、怪しいと思っても逆に絶対間違いを証明することも難しく、「使わない」あるいは別の証言を報道することによって、事実上の訂正を行うという手法もこれまでは一般に活用されてきたと思われる。
 厳格性を求めることで、沖縄の集団自決も含め、体験者の証言は今後、報道が困難を極めることが想定され、戦後70年を迎え生の声を紹介する「最後」の機会といわれるなかで、報道の自粛が起きかねない状況を強く危惧する。実際、すでに慰安婦報道は証言の紹介が事実上ストップしている、との現場の声を聞く事態が生じている。
 ついでにいえば、いわゆる広義の誤報にはいくつかの段階が存在し、無から有を作り出す〈捏造(ねつぞう)〉にはじまり、針小棒大の作り話である〈虚報〉、ミスによって事実を誤って伝えた〈誤報〉、その時は事実と信じる相当の理由があったが後に誤りがわかった〈結果誤り〉、などがあろう。そして一般には、このどの段階に当てはまるかで、社の対応も変わってくるのが一般的だ。通常は捏造になると、記事を取り消し、社長ほか責任者が辞任するという対応をとることが多く、逆に冤罪(えんざい)事件や人事の観測記事に代表される最後のカテゴリーでは、メディアは誤りも訂正もしないという場合がむしろ一般的である。そのほか、取材上の瑕疵(かし)なのか、報道上の誤りなのかという分け方や、記者やディレクターといったメディア側に責任があるのか、取材源や投稿主がうそをつくなど一義的に問題がある場合にも分けることが可能だ。

国益を守るのは責務か
 そうしたなかで、今回の朝日・慰安婦報道は、〈国益毀損(きそん)〉という新たな理由づけによって批判されているという点で、注意が必要だ。これが報道倫理に反するのか、あるいは国益に反することがジャーナリズムにとってどのような問題があるのか、についてである。今回の場合で言えば、国際社会に誤った情報を伝え、それによって国のイメージを著しく傷つけた、ということが言われ、朝日自身も、その点を重くみて、検証委員会の主要テーマに設定している。確かに、報道がどのような影響を与えたかは大きなポイントではある。たとえば、風評被害を及ぼすなどの報道による社会的影響によって、当該関係者に大きな被害や迷惑をかけることがあれば、これは批判の対象にも、場合によっては損害賠償の対象にもなりえるだろう。さらには、こうした報道によって読者の信頼を失うとなれば、報道機関にとって最大の損失である。
 政府が報道の事実誤認に抗議し、場合によっては国益に反するとの批判をすることはありうるとしても、同じ理屈をメディアの相互批判に適用できるのか、ましてや国益を守ることをメディア自身が自らに課す行為が好ましいかには強い疑問がある。ジャーナリズムの本旨は権力監視であり、時の政権を厳しく批判することで、少なくとも短期的には国家イメージを損なう、あるいは政権の信用を失墜させることはままあるからである。しかも、憲法で検閲や盗聴を明文で禁止しているのは、国家による表現行為の強制を認めていないことにほかならず、それは言論が国益とは一線を画すことの裏返しである。それは同時に「お国のためジャーナリズム」を敗戦を機に拒否するという報道界の誓いだったはずである。
 翻って沖縄では今、県知事選の真っただ中である。そこでの大きな焦点は、まぎれもなく辺野古新基地建設であるが、それはいうまでもなく「国益」とは何かを問うものに他ならない。国は県民の日々の生活を超えて、米国の意向あるいは政府の都合を優先させることを国益と呼び、それを県民が受け入れることを求めているわけであるが、地元メディアはそうした国益は県民の利益にならないのではないか、との問題提起を続けてきた。
 これは政府が言うところの「国家安全保障は知る権利に常に優先する」との原則に反する可能性がある。日米安保に基づく安全保障体制下の米軍基地による抑止力という、政府の主張する「国益」の誤りを指摘してきたこととの関係からである。
 今回の一連の辺野古報道は、まさにその象徴であり、選挙はその見えやすいかたちであるという点で、県民は重い選択を負うことになったといえる。筆者は今夏に続き、来週、あらためて沖縄入りして、国益対言論の一つの区切りを示す歴史的瞬間に立ち会うことにしたい。(山田健太、専修大学教授・言論法)