<大震災から4年>亡き夫の船、4年かけ多良間漂着 南三陸町・日野さん


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 宮城県南三陸町の志津川に住む日野正子さん(71)は、立ち上がって部屋の電球をつけた。引き出しから、夫・正司さんの写真を取り出し、仏壇の前に座って手を合わせた。自然に涙がどんどんあふれた。「お父さんが多良間に着いたみたいだよ」

 1月25日、漁船が東日本大震災の津波で南三陸町から流され、約4年の年月をかけ2千キロ離れた多良間村にたどり着いた。浜に打ち上げられた漁船の底にはフジツボがこびりつき、漂流の長い年月を表していた。
 船の持ち主の正司さんは、震災前に病気で他界。日野さん夫妻は30年近く、流れ着いた漁船「日正丸」で漁をしてきた。乗り心地もいい、どんな苦労も共にした船だ。正司さんが亡くなった後は、正子さんが1人で乗った。2人の思い出が詰まった大切な船。忘れるわけがなかった。
 2011年3月11日。正子さんは自宅から海を見ていた。引き潮で水がなくなっていく。生まれて初めて海の底を見た。青でも緑でもない、真っ黒い水が勢いをつけて押し寄せてきた。バリバリバリと目の前の電柱が倒れていく。パーンッという大きな音がして、高い波が大型の船をまとめてさらっていった。自分のあの小さな船が助かるはずはなかった。
 「ああ、きっと海の底に沈んで、どこかで粉々になっでるんだろな」
 津波で親類や友人が10人近く亡くなった。長男が、親族の遺体を軽トラックに乗せ、道がないから山を越えて火葬場まで運んだ。おじの遺体はまだ見つかっていない。埋葬するものが何にもないから、おじが裏の畑に置いて行った長靴を少しだけ切って土に埋めた。がれきを見つけるたびに「あれかな。あれかな」と日正丸の破片を捜した。
 大切な人やものを奪った津波だから、寝る前に何度も思い出していた。人の人生を変えてしまった。海が怖くなった。近づくのも嫌になった。「今もたまに津波の悪口さいう。あんの腐れ津波!っで」
 津波は嫌いだけれど、海は嫌いになれないという。「宮古島まで海ってつながってんだっぺ」。船が見つかったのは、正司さんの命日だった。「こういうことがあるからね、やっぱり。わだす、海好ぎなんです」
 船は今も、多良間島の浜にある。運送費用も掛かるため、正子さんは所有権を放棄した。多良間村によると、村内の民俗学習資料館に保存されることが決まった。震災の悲劇を語り継いでいくためだ。
 正子さんは、いつか多良間村を訪れ日正丸にもう一度会いたいと思っている。船に抱きついて「よぐここまで来だな」って声を掛けるつもりだ。(阪口彩子)

日正丸と30年以上漁を共にした日野正子さん=2日、宮城県南三陸町
多良間村に流れ着いた日正丸=2月、多良間村