東京大空襲 悲しみの記憶深く 妹を失った加藤さん


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加藤 彰彦さん

 約10万人以上が死亡したとされる1945年3月10日の東京大空襲から10日で70年。グアム、サイパン、テニアンから飛び立った米軍のB29爆撃機約300機が無差別攻撃し、約2時間で東京の4分の1が焼けた。米軍が慶良間諸島へ上陸し、沖縄戦が始まる16日前にすでに首都東京は焼き尽くされ、多くの住民が犠牲になっていた。

 1945年3月10日未明の「東京大空襲」は前沖縄大学学長の加藤彰彦さん(73)の一番古い記憶だ。当時3歳だった加藤さんは両親と生後10カ月の妹直子ちゃんと防空壕へ逃げた。壕の中はすし詰め状態だった。
 空襲警報が解除されたのは2時間半後。「ちょっと直子の様子を見て」と母に言われ、加藤さんは母の背中におぶわれた妹の鼻をつまんでみた。いつものように泣き声を上げると思ったが反応がない。直子ちゃんは防空壕の中で窒息死していた。母は形相を変え、直子ちゃんを抱きかかえ「お医者さーん」と叫んだが、どうにもならなかった。
 わが子を失った母トモ子さんは毎年3月10日、長いときは1、2時間、位牌(いはい)の前に座り、直子ちゃんに話し掛けていた。「守ってあげられなかった。自分が殺したようなものだ」と肩を震わせ泣く母の姿に加藤さんは思った。「命を生む母親にとって、子どもを失ったことは一生消えない」
 妹が亡くなったことは加藤さんの記憶に深く刻み込まれていたが、死を実感できたのは61年たってからだ。2006年夏、雑誌の企画で元沖縄キリスト教短期大学学長の金城重明さんと対談。金城さんに「妹さんのことで泣けますか」と質問された。「妹が生きていたら、結婚して子どももいただろう。それが全部消された」とぽろぽろ涙があふれた。妹のことで泣いたのは初めてだった。
 渡嘉敷島の「集団自決」(強制集団死)で家族に手をかけざるを得なかった金城さんはつぶやいた。「妹さんのことで泣けるっていい。私は今でも泣けない」。金城さんとの対話から、一人一人の人生を理不尽に奪うのが戦争だと実感した。
 自らの戦争体験、沖縄で聞いた沖縄戦の記憶、専門の福祉の視点から加藤さんはこう考えている。「日常生活の中に小さな戦争があり、その積み重ねが大きな戦争。自分の言いたいことが言え、自分で判断できる社会、誰もが安心して暮らせる社会をつくることが反戦の思想だ」
(玉城江梨子)