闘病中の山城平和運動センター議長、復帰に意欲


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
「笑顔ある戦いが大衆運動には必要だ」と話し、ゲート前への早期復帰を誓う沖縄平和運動センター議長の山城博治さん=5日、沖縄市の山城さん宅

 米軍普天間飛行場移設に伴う名護市辺野古への新基地建設で、海上掘削調査に向けたスパット台船が設置されてから17日で1年。座り込みをけん引してきた沖縄平和運動センター議長の山城博治さん(62)は、病気療養で抗議行動から離れているが、復帰への強い意欲を語った。

 名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブ前にある市民らの座り込みテント。歌や踊り、時には三線も飛び出し、誕生日会も行われる。新基地建設を明るさで吹き飛ばすような輪の中心には、いつも山城さんがいた。悪性リンパ腫で4月21日から闘病生活に入り、その姿は今はない。8月5日、一時退院で自宅療養する山城さんが取材に応じた。山城さんは「9月以降、現場の一員として連帯したい」と意欲を語った。
 昨年8月の海上作業着手の日。「沖縄をなぎ倒そうとしている」と恐怖を感じゲート前で拳を挙げた。だが、集まったのは20~30人で見慣れた身内の集結にとどまった。
 「沖縄『建白書』を実現し未来を拓(ひら)く島ぐるみ会議」が加わり、昨年末の県知事選や衆院選で「勝利」を収めると、座り込む市民は増えた。この1年でゲート前の勢いは様変わりした。
 支援の広がりに、山城さんは二つの要因をみる。一つは党派や組織の鎧(よろい)を脱ぎつながる一人一人の思いだ。「個々の主義主張を胸にしまい、辺野古に新基地は造らせない、との一点で共感し合ってきた」とし大衆運動の理想型とする。もう一つは「ぬーやるばーがぁ。いったーかってるやんなー(どういうことか、あなたたちの勝手か)」の気持ちだという。基地問題で苦しめられ、県民同士が戦わされてきた中で、心の奧の憤りが形となったと話す。「安全な環境で暮らしたいという単純な願いが根底にある」
 山城さんの「ぬーやるばーがぁ」の原点は基地が返還されなかった本土復帰にある。当時、前原高校3年生で不満を訴え仲間4人で校舎の一部を封鎖するバリケードを設けた。不戦への若者の一途な思いだった。父は沖縄戦で両膝など3カ所に被弾。親から話を聞き、戦場の怖さや理不尽さが体に染み付いた。
 県庁職員として1999年に北部合同庁舎に勤務。2000年に県職労北部支部長となり、04年から沖縄平和運動センター事務局長、13年からは同議長を務める。基地問題に本格的に関わり15年余り。東村高江でも7年余り座り込んだ。
 普天間代替施設建設の是非を問う名護市民投票で反対が上回ってから19年を迎える。「大事な時期だからこそ、現場を離れ申し訳ない」。ゲート前に「山城節」が戻るのも遠くないかもしれない。(外間崇)