<未来に伝える沖縄戦>疎開先でマラリアに 品川富子さん(90)〈下〉


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高雄の空襲から逃げるため、家族と台湾中部へ疎開したことなどを語る品川富子さん=15日、那覇市首里儀保町

 《1944年に米軍の機動部隊が台湾東方面に現れ、10月12日から3日間、米艦載機が台湾各地を空襲しました。その中で高雄の空襲回数が最多でした。同年、品川富子さん(90)は家族と一緒に疎開し、台湾中部の台中州の田中を経て、終戦まで台中州竹山(現南投県竹山)で過ごしました》

 当時、沖縄の情報はほとんど入らなかったです。同じ職場の人から沖縄にも大空襲があったと聞きました。学校の友達はどうしているのかと心配していました。しかし台湾にいるのでどうしようもなかったです。
 私たち家族は空襲が激しくなったので、田中という町に疎開しました。その後、父の友達を頼って濁水渓(台湾中部を流れる川)の上流にある竹山へ2度目の疎開をしました。台湾人の屋敷を借りて住んでいました。この人たち一家は親日家で、非常に日本人を大事にしてくれました。
 45年に入って私は悪性マラリアにかかりました。40度の熱が1週間続き、治っても3カ月ほど廃人のように何もできませんでした。父と姉が懸命に看護してくれたのと、2人の兄が持ってきたマラリアの特効薬キニーネで助かりました。
 マラリアにかかったので、終戦を迎えたことも分かりませんでした。後になって沖縄がアメリカに占領されたことを知りました。

※続きは9月27日付紙面をご覧ください。