<未来に伝える沖縄戦>集団死の悲劇、壕で目撃 佐久川政喜さん(89)〈下〉


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
戦争体験を振り返り「戦争は人間を人間じゃなくしてしまう。二度とやってはいけない」と訴える佐久川政喜さん=9月29日、読谷村比謝の自宅

 《避難のため金武村(現金武町)の喜瀬武原に移動した佐久川政喜さん家族は1945年3月31日、食糧を取りに読谷山村(現読谷村)比謝の家に向かいます》

 歩いていると、次第に艦砲射撃が激しくなっていきました。なんとか家までたどり着き、すぐに食糧を持って近くの壕に入りました。次の日、暗くなるのを待って壕を出ました。「身軽がいい」と結局は食糧は持ちませんでした。
 山中を歩いていたら、喜名辺りで敵陣に入ってしまってね。ワイヤ線に絡むと音が鳴る仕掛けがあって、機関銃が掃射され、手投げ弾もばらばらと落ちてきたわけ。そこで両親や叔母さんとは離れ離れになってしまいました。

 《当時19歳だった佐久川さんは、暗い山中を1人さまよい歩きます。疲労と空腹の中、精神は追い込まれていきます》

 もし捕虜になったら、米兵に殺されると思っていました。「死のう」と思い、携帯ナイフを自分の首に突き立てましたが、ナイフがあまり切れなくなっていて、死に切れませんでした。
 3日の早朝だったかな。木の根元に隠れていたら、10人くらいの米兵が近くを通りました。その時に音を立ててしまって、1人の米兵が「ピーッ」と口笛を鳴らしました。米兵が僕に銃を向けてね、「ああ、もうやられるな」と思いましたよ。

※続きは10月11日付紙面をご覧ください。