prime

鹿児島にあった沖縄 増田健太(北部報道グループ)<ゆんたくあっちゃ~>


鹿児島にあった沖縄 増田健太(北部報道グループ)<ゆんたくあっちゃ~>
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 取材先で出会い、ゆんたくしてくださる多くの方々から、私の出自についてよく聞かれる。増田という名前は県内には少ないからだと思う。そこで私事ながら、あらためて自己紹介をしたい。私は鹿児島県生まれで、母方の家系が沖縄県出身だ。先日久しぶりに会った母(旧姓・嘉数)に興味深い話を聞いた。
 私の祖父・嘉数純義には兄弟が何人かおり、仕事を求めたのか、戦前にそれぞれブラジル、北海道、鹿児島に渡った。沖縄に残った1人は戦死した。戦況の悪化により、純義は鹿児島から帰れなくなったが、一緒にいた沖縄出身者とともに鹿児島県霧島市国分松木町(まつきちょう)に定住することができた。一定期間の開拓をすれば住んでよい、と役場から許可を得たようだ。私の母はそこで生まれ、現地の増田と結婚し、後に私が生まれたというわけだ。
 九州の南の端にあるその松木に定住した一団は、戦時は「農耕隊」、戦後は「興南班」と呼ばれ、大城、銘苅、上原という人たちがいた。貧しかったため、正月は売り物の豚ではなく鶏をさばいて皆で食べた。以上は私の母の伝聞にすぎないが、1983年生まれの私の記憶でも、近所に豚舎の跡があったことはうっすらと覚えている。陶器工場だった場所は小学校に、畑は住宅街に変わっている。いずれ正確に調べ、その地と人々について歴史を書き残してみたい。

私が書きました
増田健太 名護市、本部町、今帰仁村担当