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<わがまちいま昔>(36)南大東村 北大東村 開拓者の島 独自の文化


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 沖縄本島の東方約360キロの太平洋上に浮かぶ北大東島と南大東島。中央に礁湖(しょうこ)をもつドーナツ状のサンゴ礁(環礁)が隆起したすり鉢状の地形で、日本で2島だけ、世界でも十数島しか例のない希少な地形の島だ。伊豆諸島(東京都)の八丈島出身者を中心に沖縄本島北部や宮古、八重山諸島など県内各地から集まった人々により開拓された歴史は120年余り。独自の島文化を生み出した両村の歩みを紹介する。
 1900年、八丈島出身の玉置半右衛門が派遣した開拓移住者たちが南大東島へ上陸し、開拓を進め、その3年後に北大東に上陸。南大東ではサトウキビ農業を中心に、北大東島では大正期から戦前までは化学肥料の原料となる燐鉱(りんこう)採掘を主産業として島の経済を支えた。開拓以来、企業が土地を所有し行政機能も管理運営する島として、日本国内でも類例のない社会制度が続けられた。
 沖縄戦では住民の多くが沖縄本島や県外に疎開した。南大東では飛行場や自然壕(ごう)などを利用した数多くの陣地が築かれた。45年3月ごろから、米軍の激しい艦砲射撃や空襲に遭い大きな被害を受けた。日本が敗戦し、沖縄が米軍の統治下に置かれ、企業統治の体制は崩壊した。46年6月、開拓史上初めて自治として村制が施行され、北大東村、南大東村が誕生した。
 製糖会社が島の土地を所有し、両村の村民に所有権がなかったことが、開拓以来の南北共通の課題だった。村民らは戦後、14年かけて所有権を企業や米国民政府の高等弁務官に訴えた。64年に南大東村、65年に北大東村の村民に土地所有権が認められて問題が解決、戦後史の分岐点となった。沖縄の日本復帰後、南北大東島と那覇間が電話通信網で結ばれ、港の拡張や両島を発着する航空機の大型化などが進んだ。農業基盤整備事業なども進められている。
 開拓以来、大和文化と沖縄文化が、融合し共存する特異な地域となった。農作物の収穫に感謝し、翌年の豊作を祈願する9月の豊年祭は、みこしや山車が集落を回り、奉納相撲として、江戸相撲と沖縄角力も見られる。八丈島から伝わった八丈太鼓は、沖縄太鼓の打法も加わり島独自の打法に変化し、大東太鼓として受け継がれる。島の文化や自然は人々を魅了し続ける。

<町づくり>遺跡、祭り生かす

 北大東村では、北大東島燐鉱山遺跡の一帯の保存・活用、観光振興や地方創生を目的とした整備事業を実施している。燐鉱石採掘時代の生活の拠点であったエリアを、現在の重要文化的景観の拠点、島のにぎわいの拠点として整備し、魅力向上に取り組む。
 南大東村では、豊年祈願と村民のレクリエーションの目的で毎年9月22、23の両日を祭日として開催している南大東村豊年祭が村の一大行事だ。神式の祭典に山車やみこしのパレードのほか、江戸相撲と沖縄角力を奉納する。琉球舞踊やカチャーシーなどで締めくくり八丈島と沖縄がひとつに融合した島文化を象徴する行事となっている。

 取材・田中芳、デザイン・仲本文子 次回掲載は9月15日予定