歴史を見つめる人工池〜釣り堀だった龍潭~【古写真から読みとく当時の街の姿 Okinawaタイムマシーン航時機】


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同じ場所で撮影したタイムスリップ写真から変貌を読み取る。
レンズを通して見る街並みや建造物は、当時の生活や世相を映す鏡。現代にも息づく街の魅力とパワーを再発見しよう。

どこの釣り堀かと思う人もいるかも知れないが、この画像は首里城の眼下に広がる庭園「龍潭」の昭和のころの姿だ。
 

1970年 釣り人で賑わう龍潭

現在は錦鯉が悠々と泳ぎ、亀が呑気に甲羅干しをし、水鳥が哲学者のような表情で佇む。どちらかと言えば静謐なイメージの場所なのだが、昭和のころはずっとアクティブな遊び場という感じだった。

僕は龍潭で魚釣りをしたことはないが、食用と言うよりは、釣っては逃がす「キャッチ&リリース」のような遊びが主だったのではないだろうか。いったいどんな魚が釣れたのか、当時の思いでなどを聞いてみたいものだ。

1970年 釣り人で賑わう龍潭

龍潭は1427年の昔に造られた人工の池。当時の中国「明」からの冊封使などを迎えるためなどの目的で整備されたという。造ったのは当時の国相として国王の片腕であった懐機。彼は明の出身だが、琉球国王の命によって明の池を視察調査し、龍潭を造り上げたという。

よくよく考えれば龍潭と言う名前も、どこか中国由来なイメージだ。子供のころは「龍潭池」という呼びかたをしていたが、台湾などにも日月潭という有名な景勝地があるように、「潭」の文字で「池」や「湖」の意味がある。なので「池」を付けるのは蛇足であった。しかし子供心には、見慣れぬ「潭」で終わるよりも「池」と呼ぶことで親しみを込めていたように思える。

1952年 1952年の龍潭と琉球大学。左は首里博物館

また戦後の昭和には、戦争で焼け落ちた首里城の跡地に琉球大学がそびえ立ち、琉球王朝の歴史の重み以上に人々が集まる自由闊達なイメージが強かった気もする。そう言えば当時の琉球大学の男子達が龍潭で泳いだなんて武勇伝や琉大祭でヨット部がディンギーを浮かべていたとか、そんな話を先輩達に良く聴かされていた。自由闊達というよりも、ハメを外しすぎな感じもするが……。

と言いながらも、2019年の消失から首里城が再起し、次世代に琉球の歴史を繋げる景勝地としての復活が待ち遠しい今日この頃である。

2021年 現在の龍潭

 


 

執筆:真喜屋 勉(まきや つとむ)

沖縄県那覇生まれの映画監督であり、沖縄の市井の人々が撮影した8ミリ映画の収集家。沖縄アーカイブ研究所というブログで、8ミリ映画の配信も行っている。

https://okinawa-archives-labo.com/