ひめゆり学徒と犠牲、大田さん一家の慰霊祭 親族が初参加 糸満・赤心之塔


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大田さん一家の冥福と恒久平和を祈る親族の山城千代さん(右)=19日夕、糸満市伊原の「赤心之塔」

 【糸満】1945年6月19日、摩文仁村(現沖縄県糸満市)の伊原第三外科壕に米軍のガス弾が投げ込まれ、ひめゆり学徒らと共に犠牲となった大田さん一家をしのぶ慰霊祭が75年後の19日、糸満市伊原の「赤心(せきしん)之塔」で開かれた。

 「赤心之塔」はひめゆり祈念資料館の手前左側にある小さな慰霊塔。裏には故・大田トシさんの3人の子どもと義母ナハさん、夫の一雄さんの名前が刻まれている。慰霊祭は1993年に始まり、トシさんが亡くなった後も金光教那覇教会の林雅信さん(80)やひめゆり平和祈念資料館の職員、南風原町の子ども平和学習のOB「アオギリ.com」らが毎年慰霊祭を行っている。今年で28回目となる慰霊祭には大田さんの親族が初めて参加した。

 伊原第三外科壕はもともと住民が隠れていたガマ。日本軍が住民を追い出し、野戦病院となるが、大田さん一家は義母のナハさん、9歳の義雄さん、5歳の繁子ちゃん、3歳の貞雄ちゃんがいたため壕に残ることを許された。しかし米軍のガス弾を受け、たまたま壕の外にいたトシさんだけが生き延びた。夫の一雄さんは防衛隊で戦死している。

 慰霊祭では林さんが思いを込めて祝詞(のりと)を読み上げ、参加者と共に冥福を祈り、恒久平和を願った。

 訪れた親族の一人、米須出身の山城千代さん(91)は一雄さんのめいに当たる。最近まで赤心之塔の存在も分からず「おじさんの家族がまつられてることさえ知らなかった。慰霊祭に参加できて本当に良かった」と涙ぐんだ。

 林さんによると、生前トシさんは毎晩子どもたちの顔が目の前に出てきて、眠れなかったという。初めての慰霊祭が行われた後「これでやっと安眠できる」と泣き崩れたと、林さんは語った。
 (金城実倫)