【キラリ大地で】アメリカ 図書館情報学博士 ビクター・オキムさん


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
ビクター・オキムさん(前列左から2人目)とその家族たち

琉米関係の生き字引

 経験豊かな人生を歩み、引き出しの多い大先輩の話は面白く啓発させられる。ビクター・オキムさん(81)=大城英一、旧羽地村出身=は、米統治下時代の沖縄の政治、経済、教育、そして琉米関係に関してはまさに生き字引だと感じた。最近出版された生活研究所年報に載ったインタビュー記事は、それを裏付けている。軍用地問題や琉球大学設立経緯などの詳細を知ることができ、さらにオキムさんの飽くなき探究心が自分の道を切り開いた。学問に専念し専門職を全うしている人生が興味深かった。

 那覇高校卒業後、大城さんは日本航空に就職した。当時、嘉手納飛行場の一部が民間の飛行場になっていた。いつかはアメリカ人の下で働きたいと思っていた大城さんは、積極的にアメリカ人に近づき、生きた英語を学んだ。そのかいあって米民政府の翻訳通訳の仕事に就いた。19歳での翻訳通訳官は異例であり、他の職員は米国留学組や大学卒の先輩たちだった。

 大城さんの仕事は軍の情報を和訳し沖縄のマスコミにプレスリリースすること。そのころについてオキムさんは「一番若いので何でも進んで仕事をした。料亭での会談などに出向き、そこでもまれて重役の人たちとも親しくなった」と述懐する。

 大城さんの一生懸命さと度量の大きさが評価され、年長者からかわいがられた。「アメリカの政策を実際に見て、それを新聞に編集して伝えていく仕事が面白く勉強になった」と話す。

 その後、星条旗新聞の記者になり、仕事をこなしながら夜間大学に通った。1959年、姉の呼び寄せでハワイに渡りハワイ大学に進学。当時姉からもらった小遣いを沖縄に送金し続け、里帰りの際、銀行には何と2千ドル貯(た)まっていた。その貯金で両親に家を買ってあげた大城さんはまだ大学2年生。「それが初めての親孝行になった」と話す。

 ハワイ大学では政治学と国際関係学を専攻したが、その傍ら沖縄研究所の東洋歴史家・坂巻教授の下で4年間助手として宝玲文庫の索引を仕上げた。

 芸術家である韓国系アメリカ人の弘子夫人と学生結婚し、名前をビクター・オキム(大金)に改名した。その後、インディアナ大学院で言語学と図書情報学の二つの修士号を取得し、同大学で普及部長として200人の部下のヘッドとして勤め、その後首都ワシントン・アメリカ・カトリック大学大学院図書館情報学部、図書館長を務めた。

 また日米文化会館図書館長、ロサンゼルスの英語学院長を歴任、その間にボストンの大学院で「日本的経営のアメリカへの応用」の論文で博士号を取得した。

 日米研究所、教育経営コンサルタントとしても現役で活躍するオキムさんは、何事にもひるまず挑戦し努力の人生を歩んできた。

 「万年学生だ」と笑うオキムさんは「未知を愛し真理を求めた後悔のない人生だ」と最後に語った。
(鈴木多美子通信員)