『チェンバレンの琉球・沖縄発見』 琉球人との交流つぶさに


社会
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『チェンバレンの琉球・沖縄発見』山口栄鉄著 芙蓉書房出版・1944円

 バジル・ホール・チェンバレン。日本・琉球の文化研究で有名なイギリス人。明治26(1893)年に那覇港に降り立つ。馬で首里、南部の農村地帯などを見て回る。頭上に荷物を載せて運ぶ女性の手には入れ墨が目立つ。茅葺(かやぶ)き屋根の脇には豚が飼われている。恐らくはまだ琉球王朝時代ののどかな風景が広がっていたに違いない。

 視察先はあらゆるところに及んだ。辻の遊郭で遊女に話を聞き、墓では寸法を採り、芝居小屋にも足を運んだ。「筆者が13年ばかり前に翻訳紹介した能の謡および能狂言と称される中世日本の抒情歌劇と実のいとこ同士の位置を占める」と感想を述べている。彼は、既に『古事記』の完全英訳という「前人未到の偉業を果たして、時の国語学界の重鎮を唖然(あぜん)とさせて」いた。八重山を舞台にした首里の役人と地元の「現地妻」との悲歌劇の和文の台本をもらったチェンバレンは、後に「琉球語の文法と辞典」に収録している。

 時の県令(県知事)の奈良原繁にも会っている。生麦事件の「主犯」として有名だ。かつての「敵」と相対したチェンバレンの胸に去来したものは何だったろうか? 尚順王子とも接見し、後に私邸である松山御殿にも招かれている。彼の観察は地勢、気候、歴史、産業さらには洗骨と厨子甕(ずしがめ)、婚姻の奇習など広範に及ぶ。

 2章の「チェンバレンの琉球・沖縄見聞録」は著者・山口栄鉄氏の論文からピックアップし読みやすくして再録されている。「琉球人の民族的特異性」の項では、次のような印象が述べられる。「高貴の方々から平民に至るまでその親切心以外の何ものにも接しませんでした」。誰もが琉球人を称賛するが、例外はペリー提督である、と指摘。1853年に来琉したペリー艦隊は砲艦外交で脅かした。チェンバレンの祖父バジル・ホールが来琉したのが、それより37年前の1816年。琉球の人々との美しい交流の様子は各国語に訳され広くヨーロッパ、アメリカに琉球の名を知らしめた。今年はちょうど200周年で、記念碑がゆかりの泊港に建てられた。今月16日にある除幕式に合わせてこの本が上梓(じょうし)されたのも深い縁を感じる。
 (緒方修、東アジア共同体研究所琉球・沖縄センター長)

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 やまぐち・えいてつ 1938年、那覇市生まれ。「国際琉球学」「欧文日本学・琉球学」を提唱する研究者。プリンストン、スタンフォード、エール大学を経て沖縄県立看護大教授を務めた。

チェンバレンの琉球・沖縄発見
山口 栄鉄
芙蓉書房出版
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