『いつか来た町』東直子著 言葉を放つ自由度について


社会
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 あとがきには、こうある。「いつの日か私が来たことのある町についてつらつらと書きつづったもの」だと。神保町から始まって、吉祥寺、名古屋、御茶ノ水、などなど25の町にまつわるエッセーが並んでいる。しかし、今ここでほとんどの人が想像したであろう「街歩きエッセー」とはちょっと異なる。美味しい店情報も、きれいな景色情報もここにはない。あるのは、この町を歩くことで筆者の脳内に浮かんだ、ありとあらゆる心象風景だ。

 例えば1本めの『連弾』では、ピアノで『きらきら星』の連弾を奏でる幼い姉妹について語られる。彼女たちがピアノを弾く理由、そして大人に育ってからの心境に至るまで。え、町歩きエッセーじゃないのこれ。そう思っちゃうと、実は、負けである。この本は、町々の情報を得るための本ではないからだ。町について触れられるのはほんの一部分だったり、あるいは、最後の1行だけだったり、する。
 つまり「その町から東直子が連想したすべての言葉」がここには記されている。その自由度はあれに似ている、ひとりでぐんぐん歩き、あるいは走り、ある程度身体が温まってくると、ふと、脳みそのねじがゆるむ瞬間がやってくる。目に映るすべてが自分に語りかけ、それを自分はくまなく受け取り、世界が自分と一緒に回っているような、そんな感覚に酔いしれた経験が、きっと誰にもあるのではないか。
 この本はそれの固まりである。歌人である筆者が歩きながら脳内に浮かんだすべてが、みずみずしい言葉でつづられている。普通、こういった本を書く場合、「町」に関係のない事柄はその時点で場外へ打ち捨てられそうなものだが、この本はむしろ、それでできている。
 人が見ている景色は、ひとりひとり違うのだと改めて痛感する。隣にいて、同じ場所にたたずんでいたとしても、見ている風景はたぶん全然違う。たとえ私がこれから神保町へ行ったところで、少女の『きらきら星』は聞こえてこない。だからこそ、伝える。同じじゃなくても、せめて「自分にはこう見えた」「こう思った」を伝える。本も言葉も、すべてのコミュニケーションは、おそらく、そのためにある。
 (PHP研究所 1500円+税)=小川志津子
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小川志津子のプロフィル
 おがわ・しづこ 1973年神奈川県出身。フリーライター。第2次ベビーブームのピーク年に生まれ、受験という受験が過酷に行き過ぎ、社会に出たとたんにバブルがはじけ、どんな波にも乗りきれないまま40代に突入。それでも幸せ探しはやめません。
(共同通信)

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