モノレールおもろまち駅を起点に大型免税店やショッピングモールが立ち並び、地元客や観光客でにぎわう那覇市新都心。この街からは想像もつかないが、沖縄戦で激戦地となり、戦後は米軍に土地を接収されて1987年まで基地だった歴史がある“戦後沖縄の縮図”のような街だ。新都心地域の一つ、天久に生まれ、土地接収でこの地を追われた屋冨祖良栄さん(77)は「世の流れに従っただけ」と淡々と語る。
激戦地になった故郷 一度は戻ったが
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1945年4月1日、米軍が沖縄本島中部に上陸。屋冨祖さんら天久の住民は本島南部に避難した。その間、現在の新都心地域は、日米の攻守が日ごとに入れ替わる激しい攻防戦が繰り広げられ、後に「シュガーローフの戦い」と呼称される激戦地となった。一家で摩文仁(現糸満市)に逃げていた屋冨祖さんは「どうせ死ぬなら天久で」と古里を目指し、北上する途中で米軍に捕まった。
米須(現糸満市)の収容所、嘉数(現豊見城市)、真嘉比(現那覇市)。天久の住民は2年間すみかを転々とし、47年に古里に戻った。戦前の穏やかな農村はすっかり荒れ果て、壊れた戦車や不発弾が転がっていた。一家は戦前に住んでいた付近に再びかやぶき屋根の家を建てて暮らした。子どもたちにとって、艦砲で開いた大きな穴が遊び場だった。「艦砲弾を(水たまりに)投げて水しぶきを上げてわあわあ喜んでいるのよ。戦争なんか忘れて。楽しかったですよ」。屋冨祖さんは当時を思い出し、顔をほころばせた。
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古里での生活もつかの間。50年、米軍住宅を建設するため、米軍の司令を受けた真和志村(現那覇市)が天久地域から出るよう住民に通告する。移動先は天久から約300メートル西の潮満原か都市部の寄宮。屋冨祖さんたちは抵抗せず、潮満原への転居を決めた。「みんな行くのに。絶対服従さ」
米軍の土地接収は、現在の国道58号に近い天久側から東へと進み、新都心地域一帯に及んだ。屋冨祖さんが通っていた安里小学校は、安謝地域に新校舎ができる53年まで元の場所に残っていた。
屋冨祖さんら児童は、まだフェンスのない基地内に入り、米軍住宅が立ち並ぶ中を通って登校した。「米兵にパトロールカーを呼ばれたこともあった。ヘイヘイヘイ! 出て行けってね」「(米軍住宅)のちり箱を開けて捨てられた食パンを持って帰って食べたよ」。米兵が移り住んだことで事件も頻発した。米兵が地元の女性を暴行する事件も発生した。「基地があるとそういう事件がある。これは必ず起きる」
「自分の土地が生きている」
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やがて基地には高いフェンスができ、学校は基地外の安謝に移転した。屋冨祖さん一家の土地は完全に基地の中に入り、立ち入ることができなくなった。基地内で働くために南部から移り住む人も増えた。
74年、日米合意によって米軍牧港住宅地区の返還が決まった。しかし返還は細切れで、全面返還の87年まで13年、その後も実際のまちづくりが進められるまで約10年かかった。屋冨祖さんの土地は天久地域の地主と共に市などに売り、現在は商業施設が建っている。屋冨祖さんは「うれしかった。自分の土地が生きている」と笑顔を見せる。
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2006年、屋冨祖さんらは聞き取りを元に、戦前の天久の大型模型を作成した。瓦屋根やバナナの木、豚小屋まで緻密に再現した。のどかな農村は、戦地となり、基地となり、今は県内有数の商業地域に変貌を遂げた。権力に翻弄された歴史。「世の中の流れに従っただけ。その時期に生まれたら仕方ない。昔の人は言ってるよ。『ゆーはゆー(世は世に)に従えって』」。屋冨祖さんはいとおしそうに模型を見つめ“戦前の天久村”に思いをはせた。
(田吹遥子)