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祖父と大叔父、墜落機の巻き添えに 石垣栄一さん(2) 島の戦争 <読者と刻む沖縄戦>  


祖父と大叔父、墜落機の巻き添えに 石垣栄一さん(2) 島の戦争 <読者と刻む沖縄戦>   上空から見た石垣市白保。住民を動員し、陸軍白保飛行場が建設された(2019年撮影)
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 石垣栄一さん(76)=沖縄市=は2007年に沖縄県警を退職後、石垣島の白保飛行場で亡くなった祖父と大叔父の最期を調べます。白保飛行場の歴史からたどりました。
 陸軍白保飛行場(石垣島飛行場)は1944年、日本軍によって建設されました。6月、石垣島に配備された128野戦飛行場設定隊が住民を動員し、突貫工事で完成させました。
 45年3月以降、飛行場が米英軍の攻撃を受けるようになり、軍歴のない農家や漁師を動員して組織した第506特設警備工兵隊が滑走路の補修に当たりました。「みのかさ部隊」の名で知られています。
 3月26日、石垣出身の軍人、伊舎堂用久さんが率いる特攻隊が白保飛行場を飛び立ちます。石垣さんは資料を集め、白保に帰郷する際は当時を知る人を訪ね、話を聞きました。
 「当時10歳くらい、現在は80代になっている人たちから聞き込みしました」。当時を覚えている人はわずかでしたが、次のような証言を得ることができまいた。石垣さんは記します。
 《太平洋戦争中の昭和20年4月18日午後、我が祖父石垣加銘(52歳)、弟の新良松(50歳)の2人おのおのが馬に乗り、畑へ行くための北側沿い(轟(とどろき)川(がわ)下流付近)を通りがかった。その時、陸軍白保飛行場から特攻出撃した戦闘機が上空で待ち伏せしていた米軍機の攻撃を受けた。炎上しながら陸軍飛行場に引き返そうとしたが、戦闘機は炎上墜落し、巻き込まれた2人は戦死した。》