<社説>対馬丸の悲劇 子どもの未来 奪わない

 疎開学童(国民学校の初等科児童)らを乗せて那覇から九州に向かった対馬丸が、米潜水艦の魚雷攻撃によって沈没してから76年を迎えた。

 乗船した学童のうち9割以上が犠牲になった。対馬丸の悲劇は、軍の論理を最優先したために引き起こされた。国家の戦争責任を繰り返し問いたい。戦争によって二度と子どもたちの未来を奪ってはならない。
 1944年7月7日、アジア・太平洋戦争中、日本が設定した「絶対防衛圏」の要であるサイパン島の日本軍が壊滅した。米軍が日本本土進攻の拠点として、いずれ南西諸島を攻撃することは確実だとみられていた。
 そこで政府は、南西諸島のお年寄りや女性、子どもたち10万人を九州と台湾に疎開させる決定をし、沖縄県に通達した。沖縄の学童集団疎開は、この10万人疎開の一部である。
 疎開の基本方針は「戦闘能力、作業力のある者」を沖縄にとどめ、「国防上軍の足手まといとなる老幼婦女子等約10万人」を転出させようというものだ。当時は食料問題が深刻で、10万人の日本軍の食料を確保するという軍の論理が働いている。
 県や保護者には知らせていないが、子どもたちが向かった海域は戦場だった。
 沖縄近海には、東南アジアから日本本土向けに戦略物資を輸送するルートがある。米軍は沖縄近海を戦略的に重要視した。このルートを航行する日本船舶に対し米潜水艦部隊が、国際条約違反の無制限攻撃を繰り返していた。
 42年から45年の4年間、沖縄近海で沈没した船舶約150隻の半数は、潜水艦攻撃によるものだった。
 沖縄に配備された第32軍は「南西諸島近海で敵潜水艦の活動が活発化。供給を断つことを重要視しているとみられる」(44年8月12日)と東京に打電している。対馬丸が撃沈される10日前に沖縄近海が危険であることを知っていた。
 対馬丸が発した暗号無線は米軍に傍受、解読されていた。第32軍主力の第62師団を乗せ上海を出発し、那覇に到着する時刻まで分かっていた。兵員を沖縄に降ろした後、学童らを乗せて九州に向かう途中で攻撃された。
 戦後佐敷村長を務めた渡名喜元秀さんは、対馬丸の撃沈で妻子5人を失った。日記に「生涯取リ返シノツカナイ誤断ヲシタ」と書いている。当時県職員だったが海が危険だと知らなかったのだろう。妻子を守るため県外疎開させたことを深く後悔した(21日付本紙)。
 対馬丸に乗船した集団疎開学童784人が犠牲になった(「対馬丸記念館」)。多くの民間人が犠牲となった対馬丸の悲劇は、沖縄戦の本質を象徴する出来事である。
 住民保護より軍事を優先させ、子どもたちの未来を奪った。鹿児島県悪石島沖で起きた「もう一つの沖縄戦」を心に深く刻みたい。



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