<社説>第32軍留守名簿 軍の罪と責任鮮明にした


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 1945年の沖縄戦で日本軍を指揮した第32軍司令部の将兵の内訳や生死を記録した「留守名簿」の存在が明らかになった。首里城地下に残る32軍司令部壕の保存・公開を進める上でも価値ある資料だ。

 「留守名簿」は陸軍省の規定に基づき、各部隊に所属する将兵らの氏名、生年月日、本籍、編入年月日などを記載している。第32軍司令部の名簿に記載されていた将兵や軍属は1029人。そのうち沖縄県出身者は278人で、都道府県別で最多だった。県出身者のうち軍属は219人で約8割を占めている。
 32軍司令部に所属する将兵の内訳が明らかになるのは初めてであり、沖縄では兵士よりも民間人が32軍司令部に多く徴用されたことがうかがえる。名簿には県出身女性の名前も数多く記載されている。男女、年齢を問わず一般県民を戦場に駆り出した「根こそぎ動員」の一端を示すものだ。
 戦後、日本軍の復員業務を担った復員庁が将兵らの生死を留守名簿に書き加えていた。それによると名簿に記載された1029人のうち「戦死」と記されたのは692人。そのうち600人が32軍司令部が45年5月末に首里の司令部壕から南部へ撤退した後の戦死者だった。日本軍の組織的戦闘が終了する直前の6月20日に戦死が集中している。
 戦略持久戦継続のための南部撤退が県民に多大な犠牲を強いた事実は「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の教訓と共に広く認識されてきた。今回の留守名簿は戦場をさまよう一般住民だけでなく、32軍司令部の将兵、軍属も軍首脳の判断の犠牲となった実態を如実に表している。
 朝鮮半島出身者2人の名前が名簿に記載されていることも重要である。「軍夫」「慰安婦」として連行され、地上戦に巻き込まれた朝鮮の人々の実態は今も明らかになっていない。日本軍が朝鮮人の扱いを軽視したためであろう。
 今回、存在が確認された32軍司令部の留守名簿から、県民の根こそぎ動員と住民保護を度外視した戦略持久戦を遂行した32軍司令部の非人間性が浮き彫りとなった。それ自体はこれまでも指摘されてきたが、将兵や軍属の名前と出身地、生死記録など具体的なデータによって32軍司令部が引き起こした惨禍とその責任が鮮明になったのである。
 首里城再建の動きと並行して司令部壕の保存・公開を求める機運が高まっている。多くの県民は沖縄戦の実相を伝える戦争遺跡としての意義を司令部壕に認めているのである。司令部壕は単なる軍陣地ではなく、南部撤退という県民の生死を左右する重大な決定がなされた地である。
 県は2021年度から32軍司令部壕に関する文献などの資料収集事業を実施する。今回の留守名簿のような資料の発掘や分析を通じて、住民動員や作戦の意図、戦闘経緯に関する新たな事実が判明することを期待したい。