<社説>毒ガス移送50年 今も危険と隣り合わせ


社会
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 米国統治時代に行われた化学兵器(毒ガス)の第1次移送から50年を迎えた。

 1969年7月、米紙報道により沖縄がアジア最大の毒ガス貯蔵基地であることが明らかになった。住民は即時撤去を求め立ち上がり毒ガスを撤去させた。米軍による基地の自由使用を住民が初めて阻んだ歴史的出来事といえる。
 しかし、毒ガスは撤去されたが、米軍基地内にどのような危険物質が保有されているか現在も明らかにされていない。米軍が持ち込んだ汚染物質によって沖縄の環境が汚染される事態は後を絶たない。米軍基地の過重負担と自由使用を許す限り、危険と隣り合わせの構図は今も変わらないことを忘れてはならない。
 沖縄に持ち込まれた毒ガス(マスタード、サリン、VXガス)は1万3千トン。米国はソ連との緊張が高まった1960年代、核兵器に匹敵する大量破壊兵器として開発した。局地戦が予想されるアジアの戦場での使用を想定している。米兵を実験に使い、深刻な後遺症をもたらした。
 貯蔵発覚後、米軍は沖縄からの化学兵器の撤去を発表した。だが受け入れ予定の本国で強い反対に遭い、移送先が決まらない。太平洋のジョンストン島への移送が始まったのは71年。1月と7~9月の2回に分けて実施された。
 1次移送で特筆されるのは住民の抵抗である。小学校など民間地域を通過する移送ルートに住民は強く反発した。予定した11日は不可能と判断し、屋良朝苗主席はランパート高等弁務官に2日間の延期を申し入れている。
 ランパートは渋り、同席した高瀬侍郎沖縄大使も米側に同調した。日米が共同歩調をとり、沖縄側に譲歩を迫る。主客転倒である。米国住民の反対に遭って本国に移送できない毒ガスを、沖縄では沿道住民が反対しても強行しようとした。しかし、屋良の不退転の決意の前にランパートは折れ、2日間延期された。
 7月15日から始まる第2次移送は1次移送の際に沿道住民と約束した移送コースの変更が焦点になる。新コースの建設費は20万ドル(約7200万円)。米国は支出を拒み最終的に日本政府が肩代わりした。交渉の過程で日本に拒否された場合、米国は米国民政府の一般資金から全額拠出することを検討していた(13日付本紙)。
 一般資金の9割は石油、電気、水道などの事業収入で、沖縄住民の財布から出ている。日本政府が出そうが、一般資金から出そうが、米国の懐は痛まない。
 毒ガス撤去後も沖縄に貯蔵された枯れ葉剤が土壌を汚染した。2016年には発がん性などのリスクが指摘される有機フッ素化合物により基地周辺の汚染が表面化した。日本政府が基地の自由使用を是認している構図を変えない限り、沖縄はリスクを背負わされ続ける。その不条理をあぶり出したのが毒ガスだった。