<社説>社民党県連分裂 支持者は納得していない


社会
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 平和・護憲を訴え県民をリードしてきた政党がなぜ分裂しなければならないのか、明確に説明すべきだ。

 立憲民主党への合流を議論してきた社民党県連が分裂した。離党した県議らは立民に入党する。県連にとどまった県議らは新たな執行部体制を確立した。県連の略称は「沖縄社民党」となる。
 県連を支持してきた有権者は納得しないはずだ。合流と分裂について明確に説明していないのである。
 全国的に社民党の党勢は著しく退潮しており、公選法が定める政党要件を失う可能性がある。それが背景となり立民との合流が議論された。県連も危機感を共有し、沖縄の声を国政に反映させるための選択として党合流を模索したのであろう。
 しかし、合流の必要性を支持者に伝える機会がないまま論議は紛糾した。支持者を放置したままの分裂劇は許されるものではない。
 護憲の理念が維持されるのかも不透明だ。
 55年体制の下、旧社会党は護憲を訴え、国政与党である自民党と対峙(たいじ)し、党勢を拡大してきた。国民の憲法観が多様化した今日でも、多くの国民は9条改正には慎重だ。党合流によって護憲の旗が埋没することにならないか。
 社民党県連は護憲、反戦・平和を訴え、県民の支持を集めてきた。立民との合流によって、これまでの政策や理念はどうなるのか合流組は明確に示してほしい。残留組も党勢が衰える中で、沖縄の民意をどう国政に反映させるのか説明すべきだ。
 忘れてならないのは、社民党が訴えてきた沖縄の諸課題は何ら解決を見ていないことである。辺野古新基地建設問題で国政野党は十分に抵抗できず政府の強行姿勢を許している。沖縄にとって厳しい政治状況下で県連は何をなすべきか議論を尽くし、有権者の前に示すべきであった。
 社民党県連の歴史は1958年2月の沖縄社会党結成に始まる。米軍が瀬長亀次郎那覇市長を追放した後、米統治に抵抗する勢力を束ねる「民主主義擁護連絡協議会」が幅広い支持を集める「民連ブーム」の中で結党の流れが生まれた。圧政に対する民衆の抵抗の受け皿を担ったのだ。70年の国政初参加以降、労働組合を支持基盤としながら国政の議席を今日まで守ってきた。有権者が党の政策や理念を支持したからだ。
 1994年9月、「基地との共存、共生」を県民に求めた宝珠山昇防衛施設庁長官の罷免を迫り、当時の社会党県本部は政権の一角にあった党本部との関係を凍結したことがある。沖縄の民意を体し、権力と対峙する姿勢がここでも発揮された。
 62年にわたる県連の歴史に照らし、分裂という判断が妥当なのかを総括し、県民の前に明らかにしてもらいたい。それが民意を重んじてきた公党の責務である。