<社説>対馬丸撃沈77年 語り継ぐ責任を忘れない


社会
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 夜の海に投げ出された恐怖はどのようなものだっただろう。77年前の1944年8月22日、鹿児島県悪石島付近で米潜水艦に撃沈された対馬丸に乗船した人々の心情を思うと胸が締め付けられる。

 国策のために失われた命を取り戻すことはできないが、できることが一つだけある。なぜ対馬丸事件が起きたか、後世に語り継ぐことだ。遺族が亡くなり、体験者も高齢化した。現代に生きる私たちには事実を継承する責任があることを改めて確認したい。
 継承する難しさを象徴する出来事が今年3月にあった。内閣府が実施してきた「対馬丸遭難学童遺族特別支出金」の最後の受給者が亡くなったことが明らかになった。
 特別支出金は亡くなった学童の父母や祖父母が対象だ。数少ない生存者以外に事件の当事者はほぼいなくなった。
 沖縄戦体験と同様、証言者が少なくなる中で、戦禍の記憶をどのように継承するかは大きな課題となっている。
 その中で対馬丸記念館の取り組みは重要だ。2019年から2年かけて制作した紙芝居が今年になって完成した。小学校低学年、高学年向けの2種類がある。学校での平和学習などに活用される。
 児童に撃沈の悲劇を伝えるだけではない。遺族や生存者、救助に当たった奄美の人々の声も盛り込まれた。
 かん口令によって事件自体が封じられた当時と違い、多角的な視点で振り返ることができる貴重な教材だ。
 一方で新型コロナウイルスのまん延に伴い、記念館への来館者が大幅に減っている。県内外や国からの支援もあるが、県民一人一人が関わっていくことが求められる。寄付や会員としての協力などさまざまな形があるだろう。
 記念館がなくなれば亡くなった学童らの魂もさまよう。「対馬丸を二度と沈めたくない」(高良政勝館長)という言葉は誰しもが納得できよう。
 ただ沖縄での激しい地上戦の研究が深まってきたのとは対照的に「海の戦争」はいまだ不明な部分や補償が不完全なところがある。
 サイパンの日本軍壊滅後の戦場になるとみられた沖縄から学童らが疎開したのは、軍の論理を優先し戦力とならないお年寄り、女性、子どもを国が追い出したからだ。日本軍が航行する海域で米潜水艦の攻撃が繰り返され、危険を知りながら送り出した。国策の犠牲といわれる理由だ。
 だが対馬丸以外の戦時遭難船舶も状況は同様だが、犠牲者への補償はいまだない。
 また琉球新報の調べで戦時中の徴用船員700人以上が犠牲になったことも昨年明らかになった。犠牲となった徴用船員の多くが10代の若者で本来1年必要な訓練を1カ月に短縮して送り出された。
 沖縄戦の一部である「海の戦争」でも、国策の果てに多くの命が奪われたのだ。調査や補償を含め、国が責任を持って関わるべきだ。