<社説>32軍壕第1坑道調査へ 負の遺産の保存・公開を


社会
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 首里城地下の日本軍第32軍司令部壕の公開に向け、県が第1坑道の位置特定調査を実施する。2022年度の日本復帰50周年記念事業として公開に向けて動き出す。

 第32軍は本土防衛の捨て石、本土決戦の時間稼ぎとして沖縄で持久戦を展開した。その拠点となった司令部壕は沖縄戦の実相を継承し、その史実を語り継いでいく上で重要な戦争遺跡である。坑道の位置特定調査は「負の遺産」の公開に向けた県の積極的な姿勢の表れであり、支持したい。
 1993~94年に県が第1坑道中枢部への到達を目指して試掘調査を実施した。この結果も踏まえ、当時の大田県政は保存・公開に向けた基本計画を策定している。
 那覇市議会が昨年6月、保存整備と内部公開を求める意見書を全会一致で可決するなど、一昨年の首里城火災を契機に公開に向けて再び機運が高まっていた。
 沖縄戦体験者らからの要請も受けて県が設置した検討委員会では、専門家からは壕の全貌把握に向けて「第1坑道など未調査部分の調査」が求められていた。
 第32軍については将兵の内訳やその生死を記録した「留守名簿」の詳細がことし明らかになった。名簿によって、兵士よりも民間人が同司令部に多く徴用されたことが分かっている。県出身女性の名前も数多く記載されていた。男女、年齢を問わず、県民を駆り出した根こそぎ動員の一端を示している。
 名簿記載の1029人のうち、戦死と記されたのは692人。その中の600人は32軍司令部が1945年5月、首里から本島南部への撤退後の戦死者で、日本軍の組織的戦闘が終了する直前の6月20日に戦死が集中している。
 32軍の八原博通高級参謀は自著で「首里戦線の後方地域には土着した住民のほか、軍の指示に従い、首里地域から避難して来た者が多数あることは確実」と記している。将兵や軍属に加え、一般住民の犠牲は必至と分かっていながら、持久戦に持ち込むとの戦略的判断が下された。このため、南部に避難していた10万人が巻き添えとなった。
 本土防衛のため軍の作戦が優先され、住民の生命や安全が無視された沖縄戦を特徴づける判断が下され、指揮が出されたのが、この32軍壕である。32軍司令部の責任を後世に語り継ぐための遺産として司令部壕の保存・公開は避けることはできない。
 忘れてはならないのは、90年代の県の調査も首里城公園の開園や戦後50年の節目を前に、壕の整備の機運が高まったことが端緒となった。
 県民の多くが沖縄戦の史実を伝えていく場所として、司令部壕の重要性を認識し、公開を求めていると言える。県は安全性に留意しつつ、第1坑道の調査をきっかけに壕の全容の解明と保存・公開に向けた事業の展開に向け、作業を加速化してもらいたい。