<社説>屋良建議書から50年 自己決定権宣言した原点


社会
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 琉球政府の屋良朝苗主席(当時)が、米軍基地撤去など施政権返還(日本復帰)後の沖縄の将来像を示した「建議書」を佐藤栄作首相に手渡してから50年を迎えた。

 建議書は、米軍基地撤去を前提に、平和憲法下での基本的人権の保障と、県民本位の経済開発を基本理念に据えた。沖縄が自己決定権を行使することを宣言した原点であり、今でも色あせない。
 屋良主席は建議書の「はじめに」を執筆し、次のように新生沖縄の決意を示した。
 「沖縄は、余りにも国家権力や基地権力の犠牲となり手段となって利用され過ぎてきました。復帰という歴史の一大転換期にあたって、このような地位からも沖縄は脱却していかなければなりません」
 「犠牲」とは、日本が始めた侵略戦争の結果、沖縄戦で県民の4人に1人が犠牲になったことや、米国統治下で人権を侵害され「軍事植民地」の状態に置かれたことを意味するのだろう。
 「手段」とは沖縄戦が「本土決戦」の準備が整うまでの「捨て石」にされたことや、戦後日本が独立と引き替えに沖縄を日本から切り離したこと、さらに米国が軍事拠点として基地を集中させたことを指す。建議書は沖縄側が主体性を発揮することを明確に示している。
 一例を挙げると、復帰後の沖縄の振興開発計画について「地域住民の総意」を計画に盛り込むことを求め、国は県が策定した計画を財政的に裏付けるための「責務を負う」とした。県民意思に基づく計画に対して「国は口を出さない」ことを大前提としている。
 米軍基地に対しては、県民の人権を侵害し、生活を破壊する「悪の根源」と指摘し、撤去を要求。同時に自衛隊の沖縄配備にも反対した。
 屋良主席は建議書を抱えて1971年11月17日、東京へ向かった。だが到着直前に、日本復帰後も米軍基地が残されることを前提とした沖縄返還協定が衆院特別委員会で強行採決された。「沖縄の最後の声」は国会に届かなかった。
 翌18日、屋良主席は佐藤首相や衆参両院議長らに建議書を手渡した。佐藤首相は日記に屋良主席が「陳情」に来たと記している。沖縄代表の最後の訴えは「陳情」程度にしか映らなかったのだろうか。
 日本復帰後も沖縄が抱える最大の課題は、基地問題である。米兵が引き起こす事件や事故、騒音被害、環境汚染、人権侵害が続く。
 現在、米中対立による台湾有事が懸念されている。その場合、米軍基地が集中し自衛隊の南西シフトが進む沖縄が標的にされ戦闘に巻き込まれる危険性が高まる。
 建議書が指摘した「犠牲」と「手段」の構図は変わらず、「構造的差別」と呼ばれる。私たちは先達が示した原点に立ち返る時だ。日本政府は、建議書に込められた沖縄の民意と真摯(しんし)に向き合ってもらいたい。