<社説>慰霊の日 「前夜」を拒絶する日に


社会
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 沖縄戦から77年。ロシアによるウクライナ侵攻後、初めて迎える慰霊の日である。

 政府は米国との軍事一体化を強化し、自衛隊を南西諸島に重点配備して沖縄の軍事拠点化が進む。政治家は台湾有事を持ち出し緊張が高まる。
 現状は外交努力が失われ力の論理が席巻したかつての日本と重なる。沖縄戦の前年に日本軍(第32軍)が配備され、島が急速に要塞(ようさい)化された。その結果「ありったけの地獄を一つにまとめた」(米軍戦史)戦闘によって4人に1人の県民が犠牲になった。
 沖縄戦の教訓は「命どぅ宝」という非戦の思想であり、人間の安全保障の実現である。慰霊の日のきょう、かつての戦争「前夜」の状況を繰り返さないことを誓いたい。
 1944年の初頭まで沖縄には本格的な軍事施設はなかった。ワシントン軍縮条約によって、沖縄本島および離島沿岸部の要塞基地計画が廃止されたからだ。多国間による外交努力によって軍縮を実現させ、沖縄が戦場になる危険性が回避されたわけだ。
 やがて日本はこの条約を破棄して沖縄と台湾方面の軍備強化に乗り出す。44年3月、沖縄に第32軍を創設した。沖縄戦を目前にした同年12月、長勇参謀長は県に対し、軍は作戦に従い戦をするが、島民は邪魔なので、全部山岳地方(北部)に退去させ自活するように伝えた。
 軍の方針について泉守紀知事が県幹部にこう漏らした。「中央政府では、日本の本土に比べたら沖縄など小の虫である。大の虫のために小の虫は殺すのが原則だ。だから今、どうすればいいのか。私の悩みはここにある」
 45年1月に大本営は「帝国陸海軍作戦計画大綱」を策定した。南西諸島を本土防衛のための「前縁」として、「本土決戦」の準備が整うまで敵を引きつける「捨て石」と位置付けた。
 それでも外交努力の機会はあった。45年2月、元首相で重臣の一人の近衛文麿が「国体護持」の立場から昭和天皇に早期に和平を探るべきだと進言した。しかし、天皇は「もう一度戦果を挙げてからでないと、話はなかなか難しい」と答えた。近衛の説得は不発に終わり戦争終結の可能性は消えた。沖縄戦は必至の情勢となった。
 安倍晋三元首相は昨年、「台湾有事は日本有事」と述べた。ロシアのウクライナ侵攻後は核共有議論を提起した。岸田文雄首相も台湾を念頭に「ウクライナは明日の東アジアかもしれない」と発言し、防衛費大幅増を目指す。
 台湾や尖閣諸島で不測の事態が発生した場合、沖縄が戦場になる可能性が高まる。しかし、島しょ県である沖縄では、有事の際の島外避難に大量の航空機や船舶が必要で、全住民の避難は不可能だ。
 なぜ日本は歴史から学ばないのか。私たちは、再び国家にとって「小の虫」とされることを拒否する。