<社説>南洋慰霊の旅再開 島しょ戦の教訓、後世へ


社会
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 太平洋戦争時に日米両軍の地上戦が行われた旧南洋群島の県出身戦没者を追悼する「南洋群島慰霊と交流の旅」が3年ぶりに実現した。

 軍民混在の島しょ戦が、いかに悲惨な事態を招くのかということをサイパン戦が教えている。その後の沖縄戦で、4人に1人が犠牲になった。サイパンも沖縄も「大日本帝国防衛」の犠牲になった。慰霊の旅というだけではなく、「軍隊は住民を守らない」という教訓を再確認し、非戦を誓う旅でもある。
 1944年6月15日から始まったサイパン戦は、7月7日、日本軍の壊滅によって事実上終了した。激しい戦闘に住民が巻き込まれ、残留邦人2万人余のうち8千から1万人が犠牲になったといわれる。その中で沖縄県出身者の犠牲は約6千人に上る。
 サイパン戦のさなか陸軍に「女子ども玉砕してもらいたし」(「大塚文郎備忘録」)という意見があった。あるいは「非戦闘員は自害してくれればよいが、やむを得ず敵手に落ちる事もあるも、やむを得ないではないか」(同)との意見も。陸軍はサイパン在の邦人に死を求めていたのだ。
 結局、大本営政府連絡会議で「居留邦人に自害を強要することなく軍とともに最後まで闘い、そして敵手に落ちる場合があってもやむを得ない」(同)と決定した。大本営と政府には住民保護の考えはなかった。
 日米の激しい戦闘に巻き込まれた民間人は、艦砲射撃と空襲の中を逃げ惑い、次第に北部へ追い詰められた。戦闘の犠牲になったほか、身内同士や仲間同士での殺し合いが続出、北端のマッピ岬から投身する者が相次いだ。米軍に投降しようとして日本軍に殺害された民間人もいた。
 サイパン戦終結から5カ月後の44年12月、沖縄に配備された第32軍は「南西諸島警備要領」を県幹部に提示した。柱の一つが沖縄島住民の北部疎開。高級参謀の八原博通は「本要領中、最も注目すべきは、住民を当然敵手に入るべき本島北部に移すことであった」(「沖縄決戦」)と記している。サイパンの事例と同様、32軍にも住民を保護するという考えはない。
 第32軍航空参謀の神直道は「住民を守ることは作戦に入っていなかった。住民は大事だが作戦にとっては足かせになる」と証言している。
 現在、政府が想定する台湾有事が現実になれば最初に戦場になるのは南西諸島だ。自衛隊が配備されている与那国町で11月30日、弾道ミサイルに備えた住民避難訓練が初めて実施された。しかし、ミサイルが飛来する事態になれば、もはや手遅れだ。自衛隊制服組幹部は離島周辺で戦闘が始まった場合「自衛隊に住民を避難させる余力はないだろう」と発言している。
 慰霊の旅の再開は、サイパン戦を振り返ることで、住民にとって台湾有事の意味を考える契機になるだろう。