<社説>32軍壕第1坑口確認 公開で沖縄戦実相継承を


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<社説>32軍壕第1坑口確認 公開で沖縄戦実相継承を
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 沖縄戦を指揮した第32軍の拠点として首里城の地下に構築された司令部壕を調査している県は、5カ所あるとされる坑道入り口のうち、園比屋武御嶽の裏手で第1坑口の位置を確定したと発表した。金城町側の第5坑口ではトロッコのレールが出土した。

 第5坑口は1990年代の県調査で確認されている。一方、第1坑口付近は60年代に那覇市が試掘調査を実施したものの詳細は明らかになっておらず、90年代の県調査でも位置確定には至っていない。今回の調査では第1坑道中心部の存在と位置も分かった。
 第1坑道は、作戦室や参謀室など32軍司令部の重要施設に通じる坑道であり、位置の確定は全容解明と公開に向け前進だ。坑道の保存状態は良好とは言えず、公開にはさまざまな課題が残されている。技術的な側面も含め、公開実現の可能性を探ってほしい。
 改めて32軍司令部壕を公開する意義を考えたい。
 司令部壕は、住民保護を度外視した「戦略持久戦」を指揮した日本軍の拠点である。本島南部に避難していた住民に多大な犠牲を強いた南部撤退を決定した地である。司令部の内規は沖縄住民に「方言」を禁じ、違反者は「スパイとして処分する」と定めた。司令部壕は沖縄人蔑視の発信源だった。
 32軍司令部壕は「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の最大の教訓を物語る「負の遺産」として公開しなければならない。関連する文献資料の収集や証言の掘り起こしを通じて、司令部壕に関する事実関係をさらに究明する必要がある。32軍壕に関連した沖縄戦体験の継承活動を支える人材の育成も求められる。
 沖縄戦の実相や史実とはかけ離れたかたちで32軍司令部壕が使われることがあってはならない。県民に多大な犠牲を強いた32軍の作戦方針を意図的に無視し、日本軍をことさら顕彰するような動きに対しては、事実の積み上げによって反論すべきである。
 例えば歴史教科書の記述の中には憂慮しなければならないものがある。
 教科書検定で文部科学省が追加合格を発表した令和書籍の中学歴史教科書には、沖縄戦における旧制中学生らの動員について「志願というかたちで学徒隊に編入され、一二〇〇人以上が死亡しました」という記述がある。
 しかし、元学徒隊員が証言するように、司令部壕構築に参加し、鉄血勤皇隊に組み入れられた沖縄師範学校男子部を含め、生徒の大半は動員によって戦場に送られたのが実情だ。この記述からは、沖縄戦の特徴である「根こそぎ動員」の実態が見えてこない。
 私たちは32軍司令部壕の保存公開によって何を継承していくのか、議論を深めなければならない。そのことがゆがんだ沖縄戦認識を改め、「新しい戦前」と呼ばれるような危機的な動きにあらがうことにもつながる。