<社説>サイパン陥落80年 島嶼戦は住民犠牲招く


<社説>サイパン陥落80年 島嶼戦は住民犠牲招く
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 太平洋戦争末期の重大局面となったサイパン島の日本軍壊滅と、南西諸島の集団疎開決定からきょうで80年がたつ。南洋の島々の悲劇を振り返り、不戦を誓う日だ。

 日本の委任統治領で多くの沖縄出身者が移り住んでいたサイパン島やテニアン島など旧南洋群島の戦いは、民間人を巻き込む悲惨なものとなった。その悲劇は1年後の沖縄戦で繰り返された。海に囲まれ逃げ場のない島嶼(とうしょ)戦は必ず住民犠牲を招く。それは現在進められる南西諸島の要塞化の行き着く先を示している。

 政府は「台湾有事」を想定した先島住民の避難計画の策定を進めているが、サイパン戦でも沖縄戦でも住民の疎開は失敗した。島の暮らしを守るには軍事を持ち込んではいけない。戦争に備える動きを止めなければならない。

 サイパン戦は「もう一つの沖縄戦」と呼ばれる。日本軍は、日本本土を守るために確保しなければならない区域として千島列島からマリアナ諸島、ミャンマーなどを結ぶ広大な防衛線を「絶対国防圏」と決めた。絶対国防圏の一角だったサイパン島を巡る日米両軍の攻防は苛烈を極めた。疎開住民を乗せた船が沈められるなどして、小さな島に軍民が混在する戦場となった。

 在留日本人2万人のうち1万人近くが犠牲になった。その中でも約6千人が県出身者とみられている。艦砲射撃と空襲の中を壕から壕へと逃げ惑う住民が日本兵に壕を追い出されたり、投降しようとして殺害されたりする悲劇が起きた。最北端の崖から身を投げ、手りゅう弾を爆発させて命を絶つ人が相次いだ。

 1944年7月7日、日本軍の指揮官が自決し、残存兵力も壊滅したことで、サイパン島の組織的戦闘は終結した。次に米軍が侵攻するのは沖縄だと判断した政府は同日、南西諸島の老幼婦女子10万人(九州8万人、台湾2万人)の疎開を緊急閣議で決定し、沖縄県知事に命令した。

 しかし制海・制空権を米軍に握られ、同8月22日に疎開学童らを乗せた対馬丸が米潜水艦の魚雷攻撃で沈められる。10月10日には南西諸島全域に波状的な空爆があり、那覇市は火の海となった。そして翌年には沖縄も最悪の地上戦へと至る。

 本土防衛の「捨て石」「持久戦」に住民を巻き込んだ軍、国家の責任は重い。サイパンも沖縄も同じ構図であり、その教訓は「軍隊は住民を守らない」ということだ。

 現在、米軍は中国を念頭に南西諸島から台湾、フィリピンを結ぶ線を防衛上の「第1列島線」と位置付ける。「抑止力」と称し、自衛隊も一体となり沖縄の軍事拡張を急いでいる。このまま沖縄が現代の「絶対国防圏」に組み込まれれば、抑止力が破綻した先に行き着くのは破滅である。

 周辺の国々との良好な関係によってしか島嶼地域の安全は保障されないことを、歴史に学ばなければならない。