<社説>大田昌秀氏死去 平和・自立・共生の志継ぐ


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 元県知事で元参院議員、琉球大学名誉教授の大田昌秀さんが亡くなった。鉄血勤皇隊として激烈な沖縄戦を体験し、一貫して平和を希求した生涯だった。県政運営の柱に平和行政を位置付け、敵味方や国籍を問わず全ての戦没者名を刻む平和の礎(いしじ)、平和祈念資料館、公文書館建設などに尽力した。

 歴代知事が問われる沖縄の心について「平和を愛する共生の心」と表現したことがある。基地の過重負担に異議を申し立て、1990年代後半、日米両政府を揺さぶった。基地のない自立的発展を目指した大田さんの政策は「自己決定権の行使」と名を変えて、私たち県民に引き継がれている。
 「日本兵が住民を壕から追い出し、同じ兵士から食料を奪い、泣く赤ん坊を絞め殺す光景を戦場で毎日見た」と証言してきた。生き延びたものの人間不信に陥り、生きる意味を失っていた時、ひめゆり学徒隊の引率者だった仲宗根政善氏が書き写した日本国憲法に感動した。「軍隊を持たないと書いた憲法に、再び生きる意味を見つけた。そういう戦後を生きてきた」と強調していた。
 研究者としての顔は広く知られる。とりわけ沖縄戦や高等弁務官の調査研究に力を注ぎ、米国から一次資料を収集し、住民の視点から沖縄戦とその後の米軍統治時代の実相を世に伝えた。
 沖縄の米軍基地を巡って政府に毅然(きぜん)と対峙(たいじ)し、基地問題を政治的争点化し、国政の重要課題に押し上げたことは特筆される。歴代知事で最多の計7回訪米し、基地の整理縮小などを直接訴えた。
 95年には、米兵による少女乱暴事件が発生。県民大会で「本来一番に守るべき幼い少女の尊厳を守れなかったことを心の底からおわびしたい」と述べた。地主が契約を拒んだ軍用地について、地主に代わって土地調書に署名押印する代理署名を拒否し、国に提訴された。日米地位協定の見直しと米軍基地の整理縮小の賛否を問う県民投票を実施した。国の専権事項と言われる基地問題について、直接民意を問う手法で対抗した。
 当時の大田県政は全国の中で最も「自立」を求め、主張していた。政策は具体的だった。基地のない沖縄の将来像を描き沖縄の自立的発展を目指した「国際都市形成構想」を策定、国に認めさせた。
 さらに、段階的に米軍基地を全面返還させるとした「基地返還アクションプログラム」をまとめ、国に提案した。国際都市形成構想の理念は現在の沖縄振興計画「沖縄21世紀ビジョン計画」に引き継がれている。
 「沖縄は絶えず、他人の目的を達成するための手段にされてきた」と指摘していた。「自分の運命は自分で決めるという毅然とした態度で将来、主体性を確立」することを望んでいた。その大田さんの遺志を継ぎたい。