<社説>「終戦」73年 沖縄の8・15を見つめる


社会
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 73回目の終戦記念日を迎えた。今年も6月23日の慰霊の日、8月6、9日の広島・長崎の原爆の日に、不戦平和の誓いを新たにしてきた。きょう8月15日は沖縄にとってどのような意味があるのか、改めて考える。

 本紙が2005年8月15日に発行した「沖縄戦新聞」第13号は73年前のきょう、1945年8月15日前後の人々の姿を多角的に紹介している。
 14日の日本のポツダム宣言受諾を受けて、米軍は16カ所の収容所の住民代表124人を石川地区(現うるま市石川)に集め、米軍の諮問機関として沖縄諮詢(しじゅん)会を設立すると表明した。20日に15人の委員によって正式に発足し、半年間にわたって中央政府の準備に当たった。ここで戦後沖縄の住民自治が胎動し、米軍統治との対峙(たいじ)も始まった。
 収容所では栄養失調やマラリアで命を落とした人が多かった。住民の大半が収容所に入れられる一方で、敗戦を知らずに南部のガマに隠れ続けていた人々も多くいた。
 避難民が身を潜めた北部の山中では、散発的な戦闘が続いていた。久米島では住民が日本軍にスパイ視され虐殺される事件が18日、20日に相次いで起こった。
 基地建設が進められた沖縄本島と異なり民生が顧みられなかった離島では、治安や食料確保などの苦闘があった。
 県外、国外にも沖縄出身者はいた。九州に疎開していた子どもたち。開拓団として満州(中国東北部)にいた人たち。日本の植民地、台湾にいた人たち。米軍の捕虜としてハワイ、サイパン、フィリピンにいた人たち。それぞれの場所で敗戦を知り、すぐに戦後の苦難が始まった。
 終戦というと、昭和天皇が詔書を読み上げた玉音放送がイメージとしてよく使われる。しかし、これは沖縄には通用しない。
 本土防衛の捨て石とされた沖縄戦で焦土と化し、住民の4人に1人が命を落とした。その後は広大な基地が建設されて軍事要塞(ようさい)と化し、50年代には本土から基地が移されて来た。今また、県民の大多数の反対を押し切って名護市辺野古への新基地建設が強行されている。
 現在に至るこのような歴史が示すのは、沖縄には真の意味での「終戦」はなかったということだ。沖縄の作家、目取真俊氏が指摘するように、沖縄は「戦後ゼロ年」のままなのである。
 「戦後ゼロ年」の歳月の中で、沖縄の人々は1968年に主席公選を実現し、72年に平和憲法下の日本への復帰を成し遂げた。しかし、復帰した日本では今、平和憲法の空洞化が進み、改憲を望む勢力が国会の多数を占めている。平和憲法の破壊を許すわけにいかない。
 悲惨な沖縄戦を体験した沖縄県民にとって8月15日の意味は格別に重い。不戦を誓い、平和希求の決意を新たにしたい。