<社説>対馬丸撃沈75年 体験を継承し平和築こう

 疎開学童ら1788人を乗せ、那覇から九州に向かった対馬丸が米潜水艦の魚雷攻撃によって沈没して75年を迎えた。犠牲者は判明しているだけで1484人を数える。その半数以上は未来に夢を抱いていた子どもたちだった。

 沖縄戦の教訓は「軍隊は住民を守らない」ということだ。同様に戦時において国家は県民、国民を守るどころか、時には犠牲を強いるという事実を突き付けられたのである。対馬丸撃沈はそのことを如実に示す悲劇だった。
 「絶対国防圏」の要衝とされたサイパン島の日本軍が壊滅した1944年7月7日、政府は沖縄や奄美のお年寄りや女性、子どもたちを島外に移動させる方針を閣議決定した。沖縄が戦場となることが不可避となり、戦争の足手まといとなる住民を排除し、食糧を確保するという戦争遂行上の意図があった。
 既に沖縄周辺海域の制海権を日本は失っていた。対馬丸の航行を把握していた米潜水艦によって鹿児島県悪石島沖で沈められたのだ。対馬丸が軍団輸送に使われた軍徴用船だったことも災いした。
 対馬丸撃沈は、米国との戦いで劣勢にありながら戦争を遂行した国家が危険を承知で疎開に踏み切ったことによる犠牲である。国家の責任を問い、対馬丸撃沈を「事件」と捉える研究者もいる。政府が「対馬丸遭難学童遺族特別支出金」を支給しているのも国策の犠牲を考慮したものだ。
 対馬丸以外の沖縄関係戦時遭難船舶の存在も忘れてはならない。フィリピンやサイパンなどの島々から県出身者を乗せて出港した引き揚げ船25隻が米軍の攻撃で沈められている。対馬丸とは異なり、戦時遭難船舶は今日に至るまで犠牲者の補償はなされていない。対馬丸同様、国策遂行による犠牲という側面が指摘されており、何らかの遺族補償が考慮されるべきだ。
 体験者や遺族は対馬丸の悲劇を語り継いできた。体験継承の拠点となっているのが対馬丸記念館である。2004年8月の開館から今年で15年を迎えた。17年3月には生存者や犠牲者の遺体が流れ着いた奄美大島に慰霊碑が建立されたことも体験継承に資する取り組みだ。
 日本と近隣諸国との関係が悪化している今日、対馬丸の悲劇を語り継ぐ意義を改めて考えたい。対馬丸記念館が開館時に発したメッセージが参考になろう。
 「いまも世界では報復の連鎖が子どもたちから新たな夢と希望を奪っています。この報復の連鎖を断ち切る努力を一人ひとりがすること、これこそが、対馬丸の子どもたちから指し示された私たちへの『課題』ではないでしょうか」
 75年前の惨劇で失われた夢を無にしないこと、無益な争いによって現代の子どもたちから夢を奪うことを避けるためにも、私たちは未来に向かって対馬丸を語っていかなければならない。