水俣病最高裁判決 一刻も早く幅広い救済を


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 過去の水俣病行政は患者を救うことより、行政と原因企業を免罪とすることにばかり汲々(きゅうきゅう)としてきた。そうした行政を丸ごと断罪したとも言える判決だ。

 水俣病未認定患者の遺族が認定を求めた訴訟の上告審で最高裁が認定の幅を広げるよう求める判断を下した。評価できる判決だが、もっと踏み込んで国の基準の変更を促してほしかった。ともあれ、行政は一刻も早く幅広い救済をすべきだ。
 水俣病の歴史を見ると、行政のあまりのひどさに胸がふさがる。
 1953年ごろから水俣湾周辺で猫やカラスに異変が生じ、人の症状も見つかったが、公式の患者確認まで3年を要した。チッソが原因と認められたのはようやく68年のことだ。その間、元凶の排水は垂れ流され続けた。
 71年には症状が一つでもあれば水俣病患者と認めることになったが、74年に公害健康被害補償法が施行、患者に1500万~1800万円が支払われることになり、申請が急増すると、政府は77年、感覚障害とは別の症状の複合発症を条件にした。
 この基準が今も生きている。その結果、3万人余りの申請者のうち、認定されたのはわずか2975人にとどまっている。
 今回の判決は「感覚障害だけの患者がいないという科学的実証はなく、認定の余地がある」と指摘したが、考えてみれば当たり前のことだ。逆に、企業の原資を気にして救済の門を閉ざし、患者切り捨ての方向にばかり働いた過去の行政の方こそ本末転倒であろう。
 77年の基準は厳格すぎると批判を浴び、認定を求める訴訟が相次ぐと、政府は95年、訴訟取り下げを条件に一時金260万円を支払う「政治決着」をした。
 2004年、感覚障害だけの患者への賠償を促す最高裁判決が下ると再び訴訟が増え、09年に政府は特別措置法を制定して一時金210万円を支払うことにした。
 だが「政治決着」も特措法も、患者と認めないまま金を払うあいまいなやり方だ。いわば患者の分断政策だった。
 そんな弥縫(びほう)策の弊害を見据えるなら、最高裁は認定基準を見直すよう促すべきだった。患者は高齢化している。政府も基準を直ちに改め、幅広い救済を急ぐべきだ。差別を恐れて声を上げられない潜在的被害者もいるはずで、幅広い実態調査も実施してもらいたい。