しまくとぅば大会 県の本気度が問われる


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 「方言を使わないようにしましょう」「正しい日本語を使いましょう」-。1972年の「日本復帰」前の小学校では、教室のどこかにそのような「週訓」「今週の努力目標」が掲げられていた。

 恐らく中学、高校でも同様な状況だったろう。沖縄社会全体が、先祖代々の言葉を冷たく扱っていた負の歴史を感じざるを得ない。
 それが今や、県民運動として普及、復興に取り組むまでに時代は変わった。18日に開催された「しまくとぅば」県民大会参加者の中には時代を振り返り、そのような感慨を覚えた人も多かったのではないか。
 だが、県民運動として取り組まなければ継承が図れないということは、それだけしまくとぅばが危機的状況にある証左でもある。
 何がそこまで県民をしまくとぅばに駆り立てるのか。文化の基層である言葉が消滅すれば、伝統行事や芸能など上層の文化も失われてしまう。その継承、復興への思いは民族的危機感とも言えよう。
 時代が言語環境に反映することを考えれば、沖縄を取り巻く状況とも決して無縁ではないだろう。
 しまくとぅばを失っては、沖縄への理不尽な押し付けにも抗(あらが)えなくなるといった思いが、県民に強まっているのではないか。
 県はしまくとぅばの教育プログラム導入については「学習指導要領上、検討が必要」などとして慎重な構えだ。しかし、教育で失ったものは教育で取り戻すしかない面もあるのではないか。
 教育特区など、全国一律ではない言語教育の仕組みが導入できないか、しっかりと検討すべきだ。
 しまくとぅばを学ぶことが沖縄に埋没しとどまるのではなく、日本や世界の問題にも向き合い、関わるきっかけにもなるような言語教育であってほしいと思う。
 教育現場任せにしてもいけない。厳しい時代も経てしまくとぅばが残ったのは、家庭や地域で代々の言葉を伝える地道な努力があったからだろう。
 それにしても「県民大会」と名が付く集会に県の主の姿がないことの、何と寂しいことか。別日程で仲井真弘多知事が出席していないと知らされ、大会会場では落胆の声も漏れた。しまくとぅばでの大会宣言などがあるかとも思ったが、それもなかった。
 学校教育へのしまくとぅば教科の導入も含め、県の本気度がこれからますます問われてくる。