砂川判決援用 不当な拡大解釈の上塗り


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 安倍政権が「砂川事件」の最高裁判決(1959年)を引っ張り出してきて、憲法解釈変更による集団的自衛権行使の限定容認論に理解を得ようと躍起になっている。

 砂川事件では米軍駐留が憲法に違反するかが問われ、東京地裁は違憲と判断したが、最高裁は地裁判決を破棄し、憲法は国家の自衛権保有を認めているとした。
 最高裁判決が自衛権について「個別的」であるか「集団的」であるかに触れていないのをいいことに、安倍晋三首相らは集団的自衛権も認めた判決と主張しているのである。
 全くもっておかしな話だ。憲法だけでなく、最高裁判決まで拡大解釈しようというのか。「集団的自衛権も視野に入れた判決と思っていた人はいない」(山口那津男公明党代表)というのが、正当な解釈、受け止め方だ。
 最高裁判決が集団的自衛権行使を前提にしているのなら、過去の政権はそれを憲法解釈に取り入れることもできたはずだ。
 しかし歴代の政権は、最高裁判決を承知の上で、憲法は集団的自衛権行使は認めていないとの解釈を堅持してきた。今ごろになって最高裁判決を援用して拡大解釈し、論拠にしようとする行為は牽強(けんきょう)付会(ふかい)と言うしかない。
 砂川事件の最高裁判決をめぐっては、当時の田中耕太郎最高裁長官がマッカーサー駐日米大使と判決前に会談し「(地裁判決は)全くの誤りだ」と述べ、判決が覆る旨の見通しを示していたことが米公文書で明らかになっている。
 米国による日本の司法への露骨な介入と、独立性を自ら放棄するかのような日本の司法の対米追従姿勢が浮き彫りにされた。
 安倍政権はもしや、最高裁長官が集団的自衛権行使を容認するとの密約を米側と結び、それが判決に表れているとでも言いたいのだろうか。そうでもなければ、判決から集団的自衛権行使容認の解釈を導き出すことはできない。
 政権内では、集団的自衛権行使には慎重だった谷垣禎一法相も限定容認論を容認し始めた。法相が憲法をゆがめる。あり得ない話だ。公明党は今こそ、歯止め役を果たすべきだ。政権の暴走を許しては党の存在意義もなくなるに等しい。
 安倍政権は無理を承知で、実質改憲に突き進もうとしている。まやかしの拡大解釈がまかり通っては、もはや法治国家とは言えない。