野戦病院本部壕 戦争遺跡として保存・活用を


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 沖縄戦で白梅学徒(県立第二高等女学校)が配属された第24師団第一野戦病院本部壕の詳細な見取り図が公開された。

 沖縄戦終結から69年。戦争体験者が高齢化する中で、戦跡は沖縄戦を伝える貴重な場だ。野戦病院本部壕を戦争遺跡として文化財指定し、保存・活用するよう求めたい。
 見取り図は、白梅同窓会の依頼を受けた沖縄平和ネットワークが、壕内を調査して作成した。本部壕は八重瀬岳の斜面に五つの入り口があった。それぞれの入り口から坑道が南側と南西側に延びており、中で東西の二つの坑道に交差し、つながっていたことが確認された。
 沖縄戦で二千数百人の男女学徒が動員された。県は女子の動員に抵抗したが、第32軍に押し切られ、15~19歳の女子学徒は看護要員として野戦病院に送られた。このうち白梅学徒隊は1945年3月下旬、八重瀬岳中腹の野戦病院本部壕に配属された。
 第32軍が首里の司令部を放棄して南部に撤退した後の6月4日、白梅学徒に解散命令が下された。その時点での解散は、米軍の猛攻の中に学徒らを投げ出すことを意味し、犠牲者の増大につながった。動員された56人のうち、22人が死亡している。
 元学徒でつくる白梅同窓会の中山きく会長(84)は「(沖縄戦を)風化させてはならないと活動してきたが、高齢となって限界を感じている」と語る。体験者に代わって戦争の実相を伝える戦争遺跡の役割は重要だ。
 しかし、戦争遺跡をめぐる現状は厳しい。例えば激戦地の浦添市前田高地の戦闘を伝える後方陣地跡は、市の区画整理事業に伴う工事で取り壊され始めている。第32軍司令部手前に位置する激戦地の一つ・那覇市真嘉比大道森の陣地壕跡は、道路拡張のため壊された。
 首里城裏手にあり沖縄師範学校男子部の学生らが掘った留魂壕は、かろうじて保存されることになった。壕内で「沖縄新報」も発行された。
 沖縄戦は本土決戦の準備が整うまでの時間稼ぎだった。日本軍には住民の生命を守る視点がなく、県民を根こそぎ動員した。その結果、多くの住民が犠牲になった。体験者が減り続ける中、戦場の記憶を生々しく伝える戦争遺跡の本格的な保存と活用を真剣に検討する時期にきている。