宮森小墜落55年 戦後史の理不尽忘れまい


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 どこよりも安全であるべき小学校が突然、炎に包まれ、ミルク給食を待つ児童たちを「火の玉」が襲った。このような理不尽が許されていいはずがない。まして繰り返されるなどあってはならない。

 18人が犠牲になり、200人以上が負傷した石川市(現うるま市)の宮森小学校米軍機墜落から55年がたった。慰霊祭で関係者が述べた通り、沖縄戦を生き延びた人の子どもたちが犠牲になった事故は、まさに「二重の犠牲」だ。そんな理不尽な沖縄の戦後史を胸に深く刻みたい。
 慰霊祭前日には当時の在籍者による初の同窓会が開かれた。55年経過してようやく開催できたということ自体、心の傷の深さを物語る。軍用機が上空に来ると目が泳ぐ。事故の話になると自然と涙が湧く。体験者のそんな話を聞くと、心的外傷が今も癒やされてなどいないことが分かる。
 娘や息子を、受け持つ児童を、同級生を、救えなかった。遺族や教員、児童は今も痛恨の思いをかみしめている。何の罪も責任もないこの方々に、これほど痛切な思いを強いているのは誰か。沖縄にこんな戦後史をもたらした日米両政府こそ、自責の念を抱くべきだ。
 事故当時、米軍は現場を封鎖し、子どもの安否を気遣う父母ですら現場に入れなかった。軍用機の情報が漏れるのを警戒したからに違いない。子を思う親の思いより軍機を優先したのだ。軍が全てに優先するその構図は、2004年の米軍ヘリ沖国大墜落事故でも繰り返された。米軍機の墜落は復帰後も45件起きている。年1回以上の頻度だ。その意味で、宮森の悲劇は確実に今につながっている。
 事故機は事故の前月にエンジンを整備したが、整備過程の一部が抜け落ちていた。整備不良のまま、試験飛行として嘉手納基地を飛び立った。沖縄の住民の生命など、実験材料であるかのようだ。
 整備不良のまま飛行させた管理者も操縦士も、責任は一切不問だった。これらは事故の数十年後に判明した事実だ。事故を風化させず、再検証することの必要性を示している。
 遺族や当時の在校生らでつくる石川・宮森630会はこれまでに記録集を4巻発行した。事故を風化させまいとする努力に敬意を表したい。長く封印してきた記憶をようやく語り始めたという人もいる。今だからこそ語れる記憶をきちんと記録し、継承したい。