裁判員判決破棄 制度の形骸化を危惧する


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 幼児虐待死事件で求刑の1・5倍となる懲役刑を言い渡した裁判員裁判の判決を最高裁が破棄した。

 最高裁判決は「他の裁判結果との公平性を損なう甚だしく不当な量刑だ」「破棄しなければ正義に反する」と一、二審判決を厳しく批判した。だが裁判員制度は市民感覚を量刑に反映させるのが目的だったはずだ。市民感覚から懸け離れた制度以前に逆戻りすることを危惧する。
 裁判員裁判での厳罰化の流れは市民感覚の表れだが、一方で厳罰化を懸念する考えも理解できなくもない。ただ、いたずらに市民感覚を否定するのでは制度そのものが形骸化するのではないか。
 裁判員とともに審理する地裁の裁判官は、最高裁判断に過度に左右されるのでなく、裁判員制度導入の原点を再認識した上で裁判員をリードしてもらいたい。
 裁判員裁判導入以前、琉球新報社が調べた県内の性暴力事件の判決(1996~98年)では、被告54人のうち5年以上の実刑はわずか4人で、50人は懲役5年未満だった。執行猶予の例も多々ある。
 強盗罪の量刑は懲役5年以上だ。財産を奪う犯罪より人間の尊厳を踏みにじる犯罪の量刑を軽くする刑法は市民感覚とずれている。裁判官だけの判決もまたずれていたことの表れであろう。近年の裁判員裁判は性暴力の厳罰化が顕著で、司法界の市民感覚とのずれを修正する効果があったといえる。
 確かに、厳罰化が妥当か疑わしめる例もなくはない。発達障害のある被告が殺人罪に問われた例で、大阪地裁の裁判員裁判の判決は「障害に対応できる受け皿が社会になく、再犯の恐れが高い」として求刑を4年上回る懲役20年を言い渡した。これに対し大阪高裁は「障害の評価が正当でない」と懲役14年に軽くした。社会の欠陥を被告の問題にすり替え、塀の中に押し込めればいいとも取れるような判決の修正は当然である。
 人権擁護の観点から修正すべき判決と、その他の判決とは分けて考えるべきだ。単に制度導入以前の量刑に擦り合わせるだけの修正は承服し難い。
 制度導入前の判例と一致しないのは「制度上当然」という司法関係者も少なくない。最高裁司法研修所の研究報告書は「従来の傾向と軽重が異なったとしても、それこそが裁判員制度導入の趣旨」と指摘する。明確な不合理がない限り、見直しには慎重であるべきだ。