<社説>対馬丸撃沈70年 全遭難船舶犠牲の補償を


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 集団疎開のため沖縄から九州へ向かう学童を乗せた「対馬丸」が、米潜水艦によって撃沈され70年を迎える。犠牲者は学童780人を含む1485人に上る。船体と共に海底にのみ込まれた子どもたち、寒さと恐怖に震え、漆黒の海を漂流した子どもたちを思うと胸が痛む。沖縄戦を学び、語り継ぐ上で対馬丸撃沈を忘れてはならない。

 子どもや女性ら多くの民間人が犠牲となった対馬丸撃沈は沖縄戦の本質を象徴する出来事だ。「集団自決」(強制集団死)やスパイ視虐殺と同様、一般住民に犠牲を強いた国家の責任が強く問われているからだ。
 対馬丸を含む沖縄の県外疎開は、県民保護よりも軍事上の戦略が優先された。沖縄が戦場になった場合、子どもや女性、老人は戦闘の足手まといになり、食料確保にも支障を来すという認識が軍部にあった。「絶対国防圏」の要衝とされたサイパン島の日本軍が壊滅した1944年7月7日、政府は南西諸島の住民を九州や台湾に疎開させることを決め、実行に移した。
 ところが沖縄周辺海域は米軍が制海権を握っており、船による疎開は無謀だった。対馬丸は軍団輸送に使用された徴用船であり、狙われる危険性があった。対馬丸撃沈は国家の戦争遂行に従わざるを得なかったゆえの悲劇である。政府が「対馬丸遭難学童遺族特別支出金」を支給しているのも、国策の犠牲という点を考慮したものだ。
 対馬丸以外の「沖縄関係戦時遭難船舶」も忘れてはならない。フィリピンやサイパンなど南洋の島々を出港した引き揚げ船25隻が米軍の攻撃で沈められた。
 戦時遭難船舶の一般乗船者は国の補償が適用されていない。政府が「援護法の対象外」と認識しているからだ。しかし、戦時遭難船舶の場合も戦闘の邪魔になる住民を排除する強制移動の側面を持つという沖縄戦研究者の指摘がある。ならば対馬丸と同じく、政府が責任をもって補償するのが筋だ。
 戦時中の船の沈没は「軍事機密」とされ、かん口令が敷かれたことが全容解明を難しくした。遺族補償や遺骨収集を求めて遺族会が発足したのは敗戦から38年後の83年である。遺族が厳しい統制下に置かれたことも政府は考慮すべきだ。
 戦争協力の強要による犠牲は等しく補償されなければならないはずだ。遺族の高齢化が進んでいる。政府は早期に対処してもらいたい。