<社説>モンデール証言 佐藤首相の約束果たせ


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 普天間問題を含む在沖米軍基地の整理縮小を阻んでいるのは、米側ではなく、日本政府の硬直的な思考だということがはっきりした。

 1995年の少女乱暴事件当時の駐日米大使だったウォルター・モンデール氏の証言によると、米政府は事件直後、在沖米軍の撤退や大幅な縮小を検討していたという。しかし、日本政府が在沖米軍を撤退させないよう米側に求めていたことが明らかになった。
 日本復帰前後の歴史を振り返ると、この構図が繰り返されていることが分かる。
 沖縄返還協定締結直前の71年5月21日、佐藤栄作首相は、屋良朝苗主席から在沖米軍の整理縮小について要請を受けている。佐藤首相は「本土の(基地)負担を沖縄におわす様な事はしない」(「屋良朝苗日記」)と約束した。愛知揆一外相も在沖米軍基地の整理縮小に取り組むと明言した。
 しかし屋良・佐藤会談直前の5月13日、米空軍F4ファントムが東京の横田基地から嘉手納基地に移駐した。後に「関東計画」と呼ばれる在日米軍の整理縮小によって、首都圏から米軍は退く。その結果、日本の負担は沖縄にしわ寄せされ、佐藤首相の約束は果たされなかった。
 愛知外相が回答した整理縮小についてはどうか。沖縄返還交渉の米側実務担当者モートン・ハルペリン氏は、在沖米軍基地縮小は沖縄返還後に「議論が行われていくだろうと思っていた」と本紙に証言している。証言通り、復帰後の72年から73年にかけて米政府内で縮小論議があった。
 オーストラリア政府の公文書によると、米国防総省は在沖米海兵隊基地を本国に統合する案を検討(72年10月)し、国務省も「(米軍普天間飛行場は)明らかに政治的負債だ」との見解を示した(73年1月)。しかし、日本政府が引き留めたことで、普天間を含む在沖米海兵隊基地返還の機会を逸した。
 そして95年、痛ましい事件が起きた時の米軍撤退議論も、米軍駐留に固執する日本側の意向で実現しなかった。
 沖縄にとって米軍の存在は「相当な歴史的恨みがある」(モンデール氏)ことを米側は知っている。普天間飛行場の移設を名目にした新基地建設など不要だ。今こそ43年前、佐藤首相が屋良主席と交わした約束を果たしてもらう時だ。